忠犬八公とミケ

作成時期不明

 ビシャリ!とガラス戸を閉める音が八公の胸に突き刺さりました。急に寒さが増したような気がします。八公は震えていました。震えながら考えていました。あんなにご主人に気に入られていたはずなのにどうして部屋に入れてはもらえないのでしょう。どうしてひざに抱き上げてはもらえないのでしょう。考えても考えても考えても、出るのは答えではなくて熱い涙ばかりでした。しかし、どうにでもなれ!と諦めてしまうには、八公はあまりにもご主人のことが好きでした。ご主人がミケにだけはひざの上で眠ることを許しているのだとしたら、ご主人から好かれるための何か特別な方法をミケは知っているのに違いありません。

(それをミケから教わることにしよう…)

 絶望の海から這い上がる思いでそうつぶやいた八公の上で、冬の月が青白い光を投げかけていました。

 * * * * *

「え?ご主人から好かれるための方法だって?」

 次の日の朝、八公から相談を受けたミケは目をまん丸にして驚きました。そんなこと考えたこともありません。いいえ、ご主人に好かれるどころか、ミケはこれまでご主人のことをただの一度だって好きだと思ったことすらないのです。それを聞いて今度は八公が驚く番でした。

「す、するときみは好きでもないご主人のひざの上であんなに幸せそうに眠っていたと言うのかい?」

「ひざに上るのに好きも嫌いもないだろう?ただ暖かければそれでいいんだ」

「暖かければいいんだって?」

 八公は天と地がひっくり返るほどの衝撃を受けました。だって八公が胸が熱くなるほどあこがれているご主人のひざを、ミケはまるで一枚の座布団ほどにしか考えてはいないのです。

「だってきみはたいてい奥さんじゃなくて、ご主人のひざの上で眠っている。あれはてっきりきみが奥さんよりご主人の方を好きだからに違いないと思っていたんだけど?」

「とんでもない。奥さんの方は立ったり座ったり何かとあわただしくて、ひざをあたためる暇もないけれど、ご主人の方は一度座ったら最後、おいお茶、おい飯…と威張ってるだけで、めったなことでは動いたりしないからね。居心地がいいだけの話だよ。だいたいきみたち犬と違ってボクたちネコは誰かを嫌いになるとか好きになるとか、そういう窮屈なことはしないことにしているんだ」

「窮屈?きみはボクたちの生き方を窮屈だというのかい?」

「そうとも、窮屈さ。いいかい?もしも誰かを嫌いになったとすれば、そいつと出会ったりそいつのことを考えたりするだけで不愉快な気分になるだろう?だったら初めから嫌いになんかならなければいい。それからね、もしも誰かを好きになったとすると、今度はその人から好かれたいと思うに決まってるんだ。ところが好きな人から必ず好かれるとは限らない。そこで今のきみのように悩んだり苦しんだりする生活が始まるんだとしたら、初めから好きになんかならない方がいい。つまり好きになるのも嫌いになるのも心を縛られることに変わりはないし、心を縛られれたまま生活するような窮屈で不自由な暮らしはボクたちネコはまっぴらなんだよ」

「!」

 八公は言葉を失いました。心を縛られたまま生活する窮屈な暮らし…。確かにそのとおりかも知れません。ふり返るとこれまでの八公の生活は、縄張りに侵入して来るよその犬とは喧嘩をし、嫌いな人や怪しげな人を見れば追い払い、ただひたすら大好きなご主人のご機嫌をとって暮らして来たような気がします。窮屈と言われれば、これほど窮屈な生活はないでしょう。そこへゆくとミケの方は、居心地よさそうな人のひざの上でうたた寝をし、気が向けばプイとどこかへ姿を消し、誰かを好きになる訳でも嫌いになる訳でもなく、ふわふわと雲のような生き方をしています。自由という言葉はミケのためにあるのではないかと思うほど、それは伸び伸びとこだわらない生活ではありませんか。

「ボクの生き方が間違っていたのかも知れない…」

 八公はつぶやきました。

 ご主人のことを好きだから好かれたいと思い、好かれたいと思っているから好かれないことが辛いのです。それではいったいご主人を好きだという気持から自分の心を解き放つためにはどうしたらいいというのでしょう。八公が暗い目をしてそんなことを考え始めた頃、実はご主人の身にとんでもないことが起きていたのです。