隣りの騒音

作成時期不明

 ある晩のことです。

 男はいつものように、まるで動物園の熊のようにイライラと部屋の中を歩き回っていましたが、そんな男の心をあざ笑うように、隣りの部屋からどっと笑い声が聞こえて来た時、男の我慢は限界を越えました。

 もう許せません。

 男は脇目もふらずに部屋を出ました。

 興奮で目は吊り上がり、唇は震えていました。しかし、荒々しく隣りの部屋のドアをノックしたとたんに、突然どうしようもない不安に襲われました。

(喧嘩になったらどうしよう…。部屋の引きずり込まれて乱暴されたらどうしよう…)

 考えは、次から次へと悪い方ばかりに転がって行きます。

 そんなことにはお構いなく、ドアの向こうに人の気配が近づいたかと思うと、ガチャリと鍵の開く音が、男にはギロチンの音のように聞こえました。

 もう後には引けません。

 男は覚悟を決めました。

 しかし男が口を開くよりも早く、顔を出した学生が不思議そうに言いました。

「どうしたんですか?こんな時間に包丁なんか持って」

「包丁?」

 いつの間に持ったのでしょう。男の左手には一本の包丁がしっかりと握られています。

 それは驚くべきことでした。

(ひょっとしたら俺は人殺しをしていたかも知れない…)

 男は包丁の先からポタリ…と赤い血がしたたり落ちたような気がして、身震いせずにはいられませんでした。とにかく何とかこの場をとりつくろわなくてはなりません。男は慌てて包丁を背中に隠すと、できるだけ平静を装って言いました。

「い…いえ、別にその…醤油が切れたものですから、お借りしようと思ったのですが、でも、もういいんです。済みません」

 そして、逃げるように自分の部屋に駆け戻った男の耳に、大きな笑い声と一緒に、さっきの学生の声が聞こえて来たのです。

「こんな夜更けに醤油だってよ。気持ち悪いよなあ」

 男がアパートを出る決心をしたのはその夜遅くのことでした。


 最後の荷物を運び終わって、男はほっとため息をつきました。

 とうとう逃げ出してしまったという敗北感と同時に、とにかく逃げ出すことができたという安心感の入り混じった複雑なため息でした。もちろん今度のアパートも決して立派なアパートではありません。しかし隣りの部屋の住人が静かな暮らしをする男だということは、ちゃんと調べがついていました。男にとって、隣が静かということだけが、アパートを選ぶ基準になっていたのです。

 穏やかな毎日が戻って来ました。