八兵衛の犬と六助の犬

平成29年10月19日(木)掲載

 一年が経ちました。

 ある夏の夕暮れのことです。

「おとう、どこ探しても庄吉がいねえ!」

 八兵衛の女房が血相を変えて叫びました。庄吉というのは八兵衛の一人息子の名前です。いつもならとうに遊びから返っているはずの庄吉の姿が、もう夕日が沈むというのに、どこにも見当たらないのです。

「庄吉!庄吉!」

 八兵衛夫婦は半狂乱です。

「ざま見ろ、憎まれ口叩く罰が当たっただよ」

 そううそぶいた六助夫婦の一人息子の徳一も見当たりません。

「徳一やあい!」

「庄吉やあい!」

 八兵衛夫婦も六助夫婦も青くなって子どもの名前を呼びました。

 すると、二匹の犬が盛んに地面に鼻先をこすりつけながら、走って行きます。

 八兵衛夫婦も六助夫婦も後を追いました。

 陽はすっかり沈んで、真ん丸な月が浮かんでいます。

 庄吉は無事でしょうか。

 徳一は元気でしょうか。

 二匹の犬は、山の湖のほとりまで来ると、けたたましく吠え始めました。

 八兵衛夫婦と六助夫婦は、暗い湖水に目を凝らしました。

「庄吉だ!」

「徳一もいる」

 岸辺で遊んでいるうちに流されてしまったのでしょう。

 湖の真ん中に浮かんだ大きな丸太の上で、庄吉と徳一が抱き合って泣いているのが見えました。

「庄吉!」

 八兵衛は湖に飛び込もうとしてためらいました。

 八兵衛は泳げません。

「六助、おめは泳げるか?」

「おらもかなづちだ」

「お前さん、どうするだ!」

「あんた、何とかしねば!」

 岸辺で地団太を踏む八兵衛と六助夫婦の耳に、

「おとう!」

「おっかあ!」

 庄吉と徳一の声が聞こえます。

「庄吉、がんばるだ」

「徳一、しっかりするだ」

 八兵衛の女房も、六助の女房も泣きだしてしまいました。

 その時です。

 ザブン!

 ザブン!

 大きな二つの音と共に、白い波しぶきが上がりました。

 二匹の犬が湖に飛び込んだのです。

 月の光に照らされた湖水を、白い波しぶきが二つ、丸太に向かって近づいて行きます。

「六助、頼むぞ!」

 八兵衛が叫びました。

「八兵衛、頼むぞ!」

 六助も叫びました。

 二人はしっかりと手をとり合って、犬につけたお互いの名前を力一杯叫んでいました。

 白い二つの波しぶきは、見る見る湖の中央にたどり着くと、鼻先で丸太を押しながら、ゆっくりゆっくり岸辺に向かって泳いで来ます。

 庄吉と徳一の泣き声がだんだんと大きくなってきました。

 もう少しで岸辺です。

「六助がんばれ!」

「八兵衛がんばれ!」

 二組の夫婦はそろって大声を張り上げました。

 無事に岸にたどり着いた二人の子どもたちが母親の胸に抱かれた時には、八兵衛も六助も肩を抱き合って喜びを隠せません。

「八兵衛すまねえ」

「六助すまねえ」

 二人とも、犬にお礼を言っているのか、お互いに謝っているのか分かりませんでした。

 親子三代にわたったいがみ合いは、その時ようやく終わりました。それ以来、八兵衛家族も、六助家族も、もちろん二匹の犬も、仲良く助け合って二度と喧嘩することはなかったということです。