檻の中のごん太

平成29年10月24日(火)掲載

 と元に戻ったときにはもうすでに二人の姿はなく、靴だけが散らばっていました。ごん太は何が何だか分かりません。いつもならごん太の逆立ちを見た人間たちは、喜んでチョコレートやあんパンを投げてくれるはずではありませんか。

 どうも勝手が違います。次に会った女の人は、ごん太の姿を見るなりその場で気を失ってしまいましたし、その次に出会った男の人は、慌てて物陰に隠れると、震えながら携帯電話を掛けました。

 ごん太にはポン吉の言ったことがようやく少しずつ分かり始めたような気がします。

「きみが檻に入っていて安全だから、安全な分だけ人間たちはきみに心を許すんだよ」

 でもそんなこと、ごん太は信じたくはありません。ごん太は人気者のはずです。人間たちとうまくやる自信がありました。

 何人の人間たちを驚かせたことでしょう。

「公園の熊が逃げ出しました。住民の皆さんは、絶対に外に出ないようにして下さい」

 という放送が流れ、静まり返った夜の町をごん太は歩き続けました。

 女の子は見つからないまま、ごん太はすっかり疲れ果ててしまいました。

 おなかが空きました。

 喉も渇きました。

 食べ物が欲しくてお店の前に行くのですが、どこもかしこも固く扉を閉ざして、決して開けてはくれません。どうしたというのでしょう。いつもはあんなに親切な人間たちではありませんか。

 ようやく見つけた用水で、腹這いになって水を飲んだごん太は、ごろりと仰向けに寝転びました。

 きれいな星空が広がっています。

「女の子に会いたいなあ」

 まるで女の子の瞳の様にきらきらと瞬く星を見つめているうちに、ごん太はうとうとと眠ってしまいました。もしもけたたましい犬の鳴き声に起こされなかったら、きっと朝まで眠り込んでしまったことでしょう。

「いたぞ!」

 という叫び声に目を開けたごん太は、辺りを見回して思わず身構えました。

 たくさんの犬に囲まれています。

 手に手に懐中電灯を持った人間たちに囲まれています。

 そのうちの何人かは、怖い顔をして銃を構えていました。

 ごん太は思わず逃げ出しました。

 そのときごん太は生まれて初めて人間のことを怖ろしいと思っていました。

 犬が追いかけて来ます。

 振り返ると、追いかけてくる人間たちの一人に見覚えがありました。

「飼育係りのおじさん!」

 ごん太が嬉しそうに駆け寄ろうとしたときです。

 ズドン、ズドンという銃声が響き、鉄砲が一斉に火を噴きました。いいえ、火を噴いたような気がしたのです。

 だってそのときには、ごん太を貫いたたくさんの弾の跡から真っ赤な血が吹き出し、大きく見開いた瞳は、ものを見る能力を失っていたのですから。


「おい、お前、また餌を残したのか?」

 飼育係りのおじさんがポン吉の檻を覗いて言いました。

 立札が立っています。

『ツキノワグマ・オス・青森県』

 小さな町の小さな動物広場の中で、その立札の檻だけが空っぽでした。

 その檻の前に立ち止まり、つまらなさそうに帰って行く赤いスカートの女の子を見る度に、隣りの檻のポン吉の食欲がなくなってしまうということに、飼育係りのおじさんはまだ気が付いていないのです。