雨の日のテルテル坊主

平成29年10月27日(金)掲載

「そんな難しいこと、ぼくには分からないよ」

 アマガエルが答えたとき、靴音が近づいて、

「それじゃ、元気でね」

 アマガエルは慌てて雨の中へ消えて行きました。


 黒い大きなコウモリ傘を差して、中年の男の人が歩いて来ます。肩を落とした足取りに元気がないのには訳がありました。明日は、男手一つで育て上げた一人娘が結婚する大切な日だというのに、この天気はどうでしょう。予報では明日も雨が降り続くと言っています。それでは困るのです。

 娘の結婚は嬉しいことでした。しかし娘が嫁いだ後におとうさんを待っているのは、一人で明かりをつけ、一人で食事をし、一人でテレビを観る暮らしです。ふと襲われるどうしようもない淋しさをねじふせて、おとうさんは、ようやく笑顔で娘を嫁に出す決心をしたのです。せめて雲一つない青空の下で、晴れ晴れと送り出そうと思っていた矢先の雨だったのです。

 おとうさんは立ち止まりました。

 道端に汚れたテルテル坊主が転がっています。

 おとうさんの瞳が輝きました。

「どうするの?ねえ、まさか首をちょん切るんじゃないでしょう?」

 心配そうなテルテル坊主の声には耳を貸そうともせず、おとうさんはテルテル坊主を拾い上げると、急ぎ足で家に帰って行きました。


 思いがけずもう一度、軒下につりさげられたテルテル坊主は、雨の夜空を睨みつけています。

「どうしたの、おとうさん、汚いテルテル坊主なんかぶら下げて…」

 不思議そうに尋ねる娘に、

「明日はどうしても晴れてもらわなきゃな」

「バカね、おとうさんったら、子どもみたい」

 娘は慌てて台所に駆け込みました。危うく涙が出そうになったのです。


 晴れてほしい…。

 せめて雨だけは止んでほしい…。

 おとうさんの願いは、今ではテルテル坊主にも痛いほど分かっていました。いい父娘です。何とかお天気にしてあげたいと、テルテル坊主は思うのですが、テルテル坊主には天気を良くする力なんてありません。できることといえば、おとうさんと一緒に一生懸命に祈ることだけなのです。

 明日が早いから…と娘を先に休ませたおとうさんは、いつもより少し多めにお酒を飲んだのですが、なかなか眠ることができませんでした。けれど、おとうさんが大きないびきをかき始めた後も、テルテル坊主は起きていました。

 晴れますように…。

 雨が止みますように…。

 もうすぐ夜が明けます。

 一睡もせずに祈り続けるテルテル坊主をあざ笑うように、雨は朝になっても降り続きました。

「だめか…」

 諦めようとしたときです。

 テルテル坊主は目を見張りました。

 にわかに切れた雲間から、まぶしい太陽の光が射し込んで、見る見る青空が広がって行きます。そしてくっきりと鮮やかな虹が大空に美しい橋をかけたではありませんか。

「晴れた…おい、晴れたぞ!」

 おとうさんの嬉しそうな声が聞こえて来ます。

 よかった、よかった、本当によかった…。

 テルテル坊主は心の底からそう思っていました。素晴らしい結婚式になることでしょう。そして、ずぶ濡れの体もやがて乾くことでしょう。

「うふふ、お前のおかげですっかり晴れたわね、ありがとう」

 綺麗に着飾った娘が家を出るときに小さな声でそうささやかなければ、テルテル坊主の心も、青空と同じように、カラリと晴れ上がっていたことでしょう。

「ちがうよ、間違えないで、ぼくの力で晴れたんじゃないよ。ぼくにそんな力なんてないんだよ」

 テルテル坊主はアマガエルの言葉を思い出していました。

「君は天気を良くするためにだけ、この世に生まれて来たんだ。雨が降ればこの世にいる理由はなくなるんだよ」

 この次雨が降れば、またあの冷たい道端に捨てられてしまうのでしょうか。それどころか、今度こそ首をちょん切られてしまうまかも知れません。

 テルテル坊主の不安だけが青空に広がって行きました。

 でもそんなことは考えないでおきましょう。

 今はただ濡れた体を乾かすことだけ考えていればいいのです。

 思い直したテルテル坊主は目を閉じました。

 疲れ果てていました。

 そよ風が吹いています。

 そよ風に身を任せたテルテル坊主は、その日、いつまでもふわふわと軒下で揺れていました。