スマホ

「うちは母親が認知症になりまして」

「認知症ですか…それは大変ですね」

「とうとう携帯電話が使えなくなりました。かけられない、出られない。それで母親の電話の解約に行ったらですよ、解約期間を過ぎているので手数料が九千五百円かかる。使わないのであれば、基本料金だけ支払って、二年後の解約期間に手続きした方が安いと言うんです」

「え?解約期間が決まっているんですか?」

「契約書に書いてあるって言われても、知りませんよ、そんなこと。毎年、解約期間を知らせる葉書が届くそうですが、そんな葉書、解約を考えていないときは読みもしないで捨ててしまいますからね」

「確かに…。携帯やスマホって、説明されるままに契約していますが、あんな難解な説明、本当は誰も分かってないですよ」

「ですよね、それにしても認知症で使えない電話の基本料を払い続けるのは理不尽ですね」

「忘れないように解約期間をカレンダーに書いて、待ちましたよ、二年間…そうしたら葉書が来ました。三か月の間なら解約できるって。で、たまたま契約している会社と同じ携帯ショップをデパートで見つけたので、解約を申し出ました」

「良かったですね」

「それが良くないんですよ。その店は契約はできるけど、解約はできないって言うんです」

「え?どういうことですか?」

「解約の機能を持っている店は限られてるんですって」

「は?契約はどこの店でもできるけど、解約は店が決まってるんですか?」

「おかしいでしょ?通販と同じですよ。注文の電話はすぐかかるけど、苦情や返品の電話はなかなかかからない。しかしそんなこと、店員に文句言ってみても仕方がないですからね。家の近くの携帯ショップは解約できる店かどうかを店員に尋ねたら、分からないと言うんです」

「同じ携帯ショップなのに?」

「だから電話で聞いてくれと言ったんですよ。そしたらね、携帯ショップ同士は互いに連絡は取らないルールになっているから、自分で問い合わせろって言われて、さすがにそん時は頭に来ました」

「文句言ったんでしょ?」

「それが、お店のルールなんで済みませんって頭を下げる店員が私の息子くらいの年齢でしてね、息子は家電の量販店に勤めてるんですよ。同じような仕事やってるんだろうなと思ったら、喉元まで出ていた文句が引っ込んじゃいました」

「ああ、嫌だ、嫌だ、携帯電話もスマホも、画面操作だけで、外国にいる友達とだって瞬時に通話やメールができる便利なツールでしょ?それを解約しようとすると、画面操作じゃできなくて、身分を証明するものを持って、解約期間中に特定の店に出向けだなんて、とんでもないアナログな世界が広がっている」

「まったくです。スマホで私たち本当に便利になったんでしょうか?ラインだか何だか知りませんが、私の知ってる若者なんか、スマホで知り合った人と、スマホで恋愛して、スマホで別れましたよ。アドレスを消したら連絡も取れないって。傷ついた気持ちを彼はスマホのゲームに夢中になって忘れようとしています」

「手紙の時代は良かったですね、手書きの手紙の時代は。書いては消し書いては消しして次第に気持ちが昂って行くんです。受け取った側も行間から相手の感情が読み取れるから、何とも言えず感動する。ああ…昔はロマンチックでしたねえ。恋人の声を聞こうとすれば固定電話にかけるしかない。勇気を出して初めて電話をかけたとたんにお父さんが出て、慌てて切った思い出があります。心臓が張り裂けそうでした」

「それが生活の手応えってものですよ。私は個人と個人がスマホなんてもので繋がったつもりになっている現代というものが何だか空疎で好きになれません。便利なものは便利な分だけ必ず生きものとしての実感から遠ざかります」

「そういう人が結局ぼやき酒場に集まるのですね」

 と言った五十代の男の背広のポケットでスマホが振動した。

「いいんですか?出なくて…」

 主人が声をかけると、鼻を赤くした男は電話が切れるのを待って画面を操作して、

「はは、今夜は突然取引先の接待が入って遅くなると、いまラインしておきました」

 スマホは便利だと言って、上機嫌で熱燗をもう一本注文した。