放置国家と後見制度

はじめに

 東濃成年後見センターというNPO法人の理事長として後見業務と関わるようになって既に六年目を迎えています。判断能力の不十分な人を専門に支援する仕事だろう程度の漠然とした認識でお引き受けし、毎月開催される事例検討会に出席して弁護士や司法書士の話を具体的に聞くうちに、ようやく制度の本質が分かって来たように思います。私は今、都会のマンションに住んでいますが、不審者の侵入を防ぐための厳重なセキュリティは、一人喘息発作が起きた時の救急隊員の進入も拒んでしまいます。あらかじめ信頼できる友人に合鍵を渡しておく以外に対処の方法はありません。同じ様に我々は、個人の自由を守る法律に阻まれて、自分の権利を適正に行使できなくなった人の生活に立ち入る権限がありません。あらかじめ信頼できる人に権利擁護の権限を付与しておく以外に対処の方法がありません。

 それが成年後見制度であるのです。


一、法治国家は放置国家

 法治国家という言葉を素直に読めば、法による秩序の行き届いた安全な社会のような印象を持ちますが、実情はそうではありません。法は殺人を禁じていません。殺した者に対する罰を定めているのです。法は盗みを禁じていません。盗んだ者に対する罰を定めているのです。捕まらなければそれっきりですし、時効を過ぎれば捕まることもありません。そもそも現行犯でもない限り、たいていの犯罪は、被害者が被害を届けなければ国家はその事実を知らず、捜査すら着手されないのです。

 一方、私人同士の間で生じたトラブルについても、損害を被った側が放っておけば国家は何もしてくれません。当事者同士で解決ができないときは、損害賠償を求めて民事訴訟を提訴しない限り、損害は損害のまま放置されます。つまり法治国家とは、罪を犯すのも自由、損害を受けた者が泣き寝入りするのも自由であって、現行犯で逮捕されるような場合以外、国家は個人の生き方に干渉しない「放置国家」なのです。


二、無効になるまでは有効

 国家は個人の生き方に干渉しませんから、私人同士の間でどのような内容の契約を取り交わそうと自由です。例えば私が縁日で買ったガラスの指輪を友人に五十万円で売った、つまり売買契約を交わしたとしても自由です。友人が指輪を娘にプレゼントし、娘がそれを大切に使用している限り、契約は有効に機能して何の問題もありません。しかし後日、指輪はガラスだと気が付いた友人が、値段から推して当然ダイヤモンドと思い込んだのだからカネを返せと裁判に訴えれば、契約は無効になるでしょう。「錯誤」に基づく契約は無効であるという民法の定めに基づいて、友人の意思で国家権力が発動されたのです。私がさもダイヤであるようにほのめかしたではないかと友人が法廷で主張して認められれば、今度は「詐欺」を理由にこれまた契約は無効になるでしょう。「詐欺」による契約は無効であるという民法の定めに基づいて、友人の意思で国家権力か発動されたのです。

 本来法的に無効な契約でも、損害を受けた側が無効を実証して司法の判断を求め、審判、つまり国家権力が発動されるまでは有効のまま推移することを覚えておいて下さい。


三、悪徳商法

 「錯誤」「詐欺」以外にも民法は、「内容が公序良俗に反する場合」や「当事者に内容を理解する能力がない場合」についても契約は無効であると規定していますが、深刻なのは後者です。認知症のために判断能力が不十分になったひとり暮らしのお年寄りが、内容を理解できないまま不利益な契約を結ばされた場合を考えてみましょう。本人はそもそも不利益であることが理解できませんから、指輪をガラスと気付かない場合と同じように契約は有効なまま推移します。つまり高額な羽毛布団を買わされても、怪しい耐震工事をさせられても、何事もなかったかのように毎日が過ぎて行くのです。

 もしも親切な隣人が被害に気付いて業者と交渉し、

「お前、誰や、関係ないやんけ、あほんだら!」

 と一蹴されて、近くの警察に駆け込んだとしたらどうでしょう。警察は放置国家の番人ですから、

「事情は分かりますが、犯罪とまでは言い切れませんからねえ…」

 と恐らく取り合わず、消費生活センターを紹介することでしょう。消費生活センターは、

「う〜む、両方とも訪問販売形式での契約ですから、特定商取引法に基づいてクーリングオフの対象になりますが、八日の期限をはるかに過ぎていますからねえ…。業者の説明に嘘があれば消費者契約法で取り消すこともできますが、それも証拠がありませんし…」

 判断能力がなかったことを理由に裁判で契約の無効を申し立てるしかありませんよと、弁護士を紹介してくれますが、今度は弁護士が首を傾げるに違いありません。

「確かに、契約当時ご本人に判断能力がなかったことを証明すれば無効にできるのですが、そうなるとご本人の訴訟能力が問題になるでしょう。判断能力のない人は弁護士との代理人契約も結べませんしねえ…。成年後見を申立てる必要がありますね」

 ここに至ってようやく成年後見制度が登場するのです。


四、契約の取消権と財産管理

 成年後見制度とは、判断能力が不十分な人のために、裁判所が公正を期待できる者を選任、監督して、本人の財産を管理したり、本人が交わした不都合な契約を取り消したり、本人の代わりに必要な契約を結ぶ権限を与える制度です。先ほどの悪徳商法の被害についても、成年後見制度を利用すれば、裁判所から選任された者が本人に代わって弁護士との間に代理人契約を結べますから、選任前の被害については、契約当時の判断能力の欠如を証明して民事訴訟を起こせますし、選任後に新たに被害が生じた場合には、契約当時の判断能力など証明しなくても、今度は成年後見制度の取消権に基づいて無条件に取り消しを主張できるのです。

 もう一つ身近な例を引きましょう。

 財産管理の権限についてです。

 施設に入所している知的障害者の両親が亡くなって、本人の叔父が財産を預かることになったとしましょう。一人息子の将来のために両親がせっせと残した貯えと、本人の障害年金の振り込まれる通帳も印鑑もキャッシュカードも、一切合財を預かった叔父は、やがてそれを自分のために使い始めます。事態を察した叔母が、まさかあの子のおカネに手をつけてはいないだろうねと、通帳を見せるよう要求しても、

「兄貴は息子を頼むと俺に言い残して死んだんだ。余計な口を出さないでもらいたい」

 と言われればそれっきりです。叔母が被害を受けている訳ではありませんし、叔父が使い込んでいるという証拠もありませんから裁判は起こせません。もちろん本人には訴訟能力どころか,被害に会っているという自覚すらありません。ましてや施設の職員や福祉関係者が叔父の使い込みの事実を知ったとしても、手も足も出せません。成年後見制度によって裁判所から選任された者だけが、本人に代わって叔父の保管する通帳から現金を引き出せないよう銀行に手続きをし、年金の振込み口座を変更し、印鑑もキャッシュカードも変えて、本人の財産を守ることができるのです。