川合玉堂 | 玉堂美術館は日本画壇の巨匠・川合玉堂が昭和19年から昭和32年に亡くなるまでの10余年を青梅市御岳で過ごしたのを記念して建てられました。自然を愛し、人を愛した玉堂の人柄は土地の人々からも慕われ、玉堂の愛してやまなかった御岳渓谷に美術館を建てよう、との声が上がり、皇后陛下をはじめ諸団体、地元有志、全国の玉堂ファンより多大の寄付が集まり、没後4年の昭和36年5月に早くも美術館が開館しました。玉堂は伝統的な日本画の本質を守り、清澄にして気品のある独自な作風を展開しつつ、明治・大正・昭和の三代にわたって、日本学術文化の振興に貢献されました。展示作品は、15歳ごろからの写生から84歳の絶筆まで幅広く展示されます。展示替えは、年7回行われ、その季節に見合った作品が展示されます。 | ||
玉堂画の特色は、写実を超えた自然の気韻を観る者に惻々と感じさせるところにある。幼少のころより刻苦精励して到達した、その卓越した描法から、再び創造され生命を与えられた自然は、一言でいえば、天地人の調和を持つ自然以上の自然である。山川草木、いずれも所を得て静かに、或いは生き生きを息づき、生きとし生けるものの営みが暖かく描かれ、画に対う人々にひとしくふるさとに抱かれたような安らぎを与える作品の数々、生涯を通じて玉堂の描き続けたものはそれであった。残雪の山に暮色がしのびより、暖かな炉辺に思いをはせながら家路を急ぐ人々、川岸にも、海辺にも――、自然と共につつましく生きる人々の姿があるのが玉堂の画である。 「一日の労は一日にて足れり」という、人、本然の幸せがそこには在る。 そこにこそ、玉堂画の永遠性があるといえるのではないだろうか。 | |||
川合玉堂年譜 | |||
---|---|---|---|
明治6年 | 11月24日 | 愛知県葉栗群外割田村に、父川合勘七、母かな女の長男として生まれる、本名芳三郎。 | |
明治20年 14才 | 春 9月 |
岐阜尋常高等小学校を卒業。 青木泉橋の紹介状を持って京都望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。 |
|
明治23年 17才 | 11月 |
勧業博覧会出品に当たり、玉泉の玉と外祖父竹堂の堂をとって、「玉堂」と改める。 11月、 幸野楳嶺の塾、大成義会に入る。 同輩に久保田米僊、藤山鶴城等、先輩に菊池芳文、竹内栖鳳、谷口香嶠等がいる。 | |
明治24年 18才 | 10月28日 | 岐阜県、愛知県にわたる大地震が起こり父不慮の死をとげる。 享年66才。家財を整理し、母とともに京都に出て、油小路御池上ル照円寺境内の離れを借りて住む。 | |
明治26年 20才 | 4月 | 母急性肺炎のため死去、享年50才。親戚の大河家の次女富子と結婚。 | |
明治28年 22才 | 9月 | 長男真一出生。 京都開催の内国勧業博覧会出品の橋本雅邦作「龍虎の図」と「十六羅漢」をみて、深く感動する。 | |
明治29年 23才 | 4月 | 上京、橋本雅邦の門に入る。麴町一口坂に住む。 | |
明治31年 25才 | 10月 | 日本美術院創立、雅邦に従ってこれに加わる。 | |
明治33年 27才 | 2月 | 次男修二出生。長流画塾も盛んとなる。 | |
明治34年 28才 | 牛込若宮町に転居。 | ||
明治35年 29才 | 三男圭三出生。 | ||
明治39年 33才 | 五二共進会審査員に任命せられる。長女国子出生。 | ||
明治40年 34才 | 3月 | 東京勧業博覧会の審査官。文展審査員に任命せられる。 | |
明治41年 35才 | 1月 | 師、橋本雅邦死去、享年74才。 玉堂を中心に芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生まれ、その後30年続く。 | |
明治42年 36才 | 長流画塾盛んとなり、研究会とは別に、展覧会本位の団体、下萌会が生まれる。 | ||
明治43年 37才 | 9月8日 | イタリア万国博覧会監査委員に任命せられる。 | |
大正元年 39才 | 文展日本画部を二科に区分、日本画部第二科審査員に任命せられる。 | ||
大正3年 41才 | 農商務省より大正博覧会審査員に任命せられる。 | ||
大正4年 42才 | 5月19日 | 東京芸術学校教授を拝命。10月若宮町の住宅落成。 | |
大正6年 44才 | 6月 | 帝室技術員を拝命。 | |
大正7年 45才 | 下萌会を復活。 東京美術学校日本画科主任煮に任ぜられる。 | ||
大正8年 46才 | 9月 | 帝国美術院会員となる。 | |
大正9年 47才 | 10月 | 三男圭三死去。 12月、高等官三等に任ぜられる。 | |
大正11年 49才 | 5月 | 第1回朝鮮美術展覧会が開かれ、審査員として京城に赴き、朝鮮各地を巡遊。 | |
大正13年 51才 | 小堀鞆音、下村観山、山元春挙、竹内栖鳳、川合玉堂、横山大観6人の淡交会生まれる。 | ||
昭和2年 54才 | 3月 | 従四位に叙せられる。 | |
昭和3年 55才 | 1月 | 昭和天皇御即位御大典用品として、悠紀地方風俗屏風の揮毫を拝命。 11月、大礼記念章を授与せられる。 | |
昭和4年 56才 | 9月 | 勅任官待遇。 10月、勲四等瑞宝章を賜わる。 12月、明春イタリア、ローマに開催の日本美術展覧会出品を宮中において天覧、横山大観とともに御説明。 | |
昭和6年 58才 | フランス、レジョン・ドヌール勲章を拝受。 6月、イタリア皇帝よりグランオフイシエー・クーロンヌ勲章を拝受。 | ||
昭和7年 59才 | 10月 | 正四位に叙せられる。 | |
昭和8年 60才 | 10月 | ドイツ政府より赤十字第一等名誉賞をおくられる。 | |
昭和10年 62才 | 11月 |
帝国美術院会員に任命せられる。 、勲三等瑞宝章を賜わる。 | |
昭和11年 63才 | 2月 | 帝国美術院松田改組なり、第1回展覧会開かれる。 6月、東京美術学校教授及び帝国美術院会員の辞表を提出。 11月、平生改組による第1回文部省展覧会開かれる。 | |
昭和15年 67才 | 11月10日 | 紀元2600年式典当日、文化勲章を受ける。 | |
昭和17年 69才 | 1月 | 俳句集、「山笑集」刊行、木活和綴で俳句百句を収録。 | |
昭和19年 71才 | 7月 | 東京都下西多摩郡三田村町御岳に疎開、12月更に古里村白丸に転ずる。 歌集「若宮集」をつくる。 | |
昭和20年 72才 | 5月 | 牛込若宮町の住宅、戦災にあい焼失。 12月三田村御岳に移り「遇庵」と称する。 | |
昭和22年 74才 | 11月 | 歌集「多摩の草屋」刊行。 | |
昭和23年 75才 | 11月 | 歌集「多摩の草屋」巻2刊行。 | |
昭和24年 76才 | 12月 | 歌集「多摩の草屋」巻3刊行。 | |
昭和27年 79才 | 3月 | 兼素洞の企画によって、玉堂、大観、龍子の三人展雪月花展を開催す。 | |
昭和28年 80才 | 4月 | 歌集「多摩の草屋」巻4刊行。 8月、ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影、11月完成。 11月、病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間制作を行わず。 | |
昭和29年 81才 | 3月中旬 | 病気快復。俚謡「御岳杣唄」を作詞。 古関裕而作曲。 | |
昭和30年 82才 | 3月 | 兼素洞の企画によって、大観、玉堂、龍子三人展の松竹梅展を開く。 大観は松、玉堂は竹、龍子は梅の課題である。 10月、名誉都民に、11月青梅名誉市民に推薦される。 | |
昭和32年 84才 | 2月下旬 | 心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養、一時回復に向かう。 6月上旬から再び悪化し、30日午後零時40分急逝。(勲一等旭日大綬章を賜わる。) | |
開館時間 | 3月~11月=10:00~17:00 12月~2月=10:00~16:30 |
(入館16:30まで) (入館16:00まで) | |
休館日 | 月曜日(月曜日が祝日の場合、その翌日) および12月25日~1月4日 ※9月上旬臨時休館日あり | ||
入館料 | 大人・大学生 500円(400円) 中学・高校生 400円(300円) 小学生 200円 (150円) ※( )内は20名以上の団体料金 | ||