社会契約説考

令和02年10月08日(木)

 我が国の歴史も同様の過程を経て国家が成立しました。群雄割拠した戦乱の世を、織田信長と言う覇者が天下布武を宣言して制覇した後を、秀吉が引き継ぎ、家康が完成させました。いずれも天皇という権威から現実社会を統治する権限を与えられることによって正当性を帯びました。ヨーロッパと異なるのは、海に囲まれた島国という条件下で、鎖国政策によって国を閉ざしたわが国は、重商主義とは無縁であったことでしょう。

 人間の社会は互いの欲望を満たし合うことで豊かになって行きます。自分の空腹を満たす以上の食糧を生産して他人を農作業から解放し、解放された人々は他人の着る物を生産して、他人がこしらえたベッドで眠ります。他人が好む調理をし、他人の喜ぶ歌を歌い、他人の病気を治療し、一通り欲望が充足を見ると、顕在化しない欲望を喚起し、或いはわざわざ健康不安や虚栄心を掻き立ててまで、他人の欲望を満たそうとする営みの総和が、社会の豊かさであるのです。欲望は貨幣を媒介して満たし合う訳ですが、絶対王政が落ち着くと、権力の保証を得た貨幣の信用度は増し、経済活動は盛んになって、領民の生活は豊かになります。そして豊かになった人は、自由と合理性を求めるようになるのです。そうなると、王の権限は神から授かったのだという中世の理屈は、もはや領民の支持を得られない段階に至ります。その段階で王による理不尽な課税や、目に余る贅沢や、看過できない失政があると、領民は蜂起して王を倒します。神から自由になって自らの考えで立つ領民は、王の所有物ではないという意味で市民と呼ばれます。市民が王を倒して自らの政府を樹立する運動こそ市民革命であり、市民の成立によって近代が幕を開けたのです。

 こうして成立した市民による統治機構にも王権神授説に代わる正当性が与えられなければなりません。そこで提唱されたのが前述した社会契約という概念でした。社会契約説を背景に市民一人一人が構成員であるという自覚に基づいて成立した国家のことを国民国家と言いますが、ここでも我が国の場合はヨーロッパとは事情が違っていました。生産性の向上と流通網の発達で人々の生活が豊かになったとはいっても、資源もなく産業革命も経験しない閉ざされた島国での抑制的な繁栄は、放っておけばいつまでも稲を中心としたリサイクル社会のようなつつましさで推移したことでしょう。既に蒸気機関という動力装置を手に入れたアメリカの捕鯨船に無理やり開国を迫られて、なす術もない徳川政権の体たらくに、精神の誇り高さだけを鍛練し続けて来た武士階級が反旗を翻しました。徳川から明治への歴史の展開は、関ヶ原以来、徳川政権から冷遇されて来た外様の武士たちが天皇を担ぎ、進退窮まった徳川家が政権を返上するという形で成立した革命であり、政権の正当性のために社会契約説を援用しなければならないような市民革命ではありませんでした。あくまでも天皇の権威に依存した政権交代であったという意味で、明治維新はヨーロッパの市民革命とは本質を異にしたものでした。

 やがて突貫工事のように産業革命を達成した我が国は、凍らない港を求めて南下するロシアの動きを警戒し、日清、日露と二つの戦争の末、遅れ馳せながら重商主義国家の道を選択します。ヨーロッパの近代化は神の権威からの自立と同時進行でしたが、わが国は逆に、天皇の神格化を図り、その威を借りた軍部の専横が進みます。そして第一次世界大戦後の世界的な不景気に対し、わが国は大陸に建設した傀儡政権に活路を求めて列強の反発を買います。あとはドイツ、イタリアとともに泥沼の戦争に敗れて占領下に置かれ、天皇が人間宣言を行う結果となるのです。

 占領下のわが国で、正当性を社会契約説に依拠する新憲法が、戦勝国を代表する連合国軍最高司令官総司令部の手で起草されました。つまり、絶対王政を倒した新政府の正当性の根拠として認識されるべき社会契約説は、天皇という存在を現人神から国民統合の象徴に変更し、事実上の国家の支配者であった軍を解体し、戦争を遂行した指導者の一部を処刑することをもって、憲法という形で具現化したのです。臣民は一日にして民主国家の主権者である国民になりました。新憲法は平和憲法とも呼ばれ、他国に対する交戦権を認めず、従って軍を持たない形で戦後の国家をスタートさせました。国民は国民で、契約を履行しない国家に対しては抵抗権があるという社会契約説の核心部分を理解しないまま国家の構成員になりました。国家と国民の間の緊張関係が希薄な状態で戦後七十数年が経過してみると、存在しないはずの軍隊がいつの間にか警察予備隊として誕生し、やがて自衛隊へと名を変えて、もはや外から見れば、それを軍隊ではないと否定することはできない規模を有しています。憲法は国際紛争を解決するための交戦権を認めてはいませんが、自国を防衛のための武力行使は、国際紛争を解決するための交戦には当たらないと憲法解釈を変えました。自衛隊は違憲であるという考えを党是として支持を得ていた政党は、党首が総理大臣になったとたんに党是を変え、自衛隊の存在を合憲と認めました。それでもかろうじて維持していた専守防衛という自衛隊の活動範囲の制限は、国連の平和活動に参加する場合は領海を越えられると解釈を拡大し、続いて国民の生存権が脅かされる事態に立ち至ればという条件付きで、集団的自衛権の発動を可能にし、最近では自国が攻撃される恐れが具体的になれば、相手国の軍事施設を先制攻撃することも自衛の範囲に含まれると憲法解釈を変えました。