夢の解釈

平成26年08月24日(日)

 傘は激しく岩にぶつかって無残に折れ曲がっていました。私はどうして価値のない折りたたみ傘をこれほど大切に思うのか自分でも分からないまま、折れた傘を手に、再び梯子を上って行きました。上りきった場所で道は途絶え、ちょっとした広場になっていました。広場の中央に「真実の口」が、上向きにぽっかりと口を空けています。映画「ローマの休日」でヘップバーンが恐る恐る手を入れる、あの恐ろしげな海賊の石の顔です。男女の姿はありませんでしたが、梯子を上って来て姿を消した以上、あの口に飛び込んだに違いありません。覗き込むと、不気味な暗闇が広がるばかりですが、ためらいはありませんでした。思い切って足から体をもぐり込ませました。中は螺旋形の巨大な滑り台になっているらしく、体は回転しながら闇の中を滑り落ちて行きます。平らな場所に出ると同時にまぶしい光に包まれました。光に慣れた目の前には、最初に案内された部屋があり、隣りの病室では、白衣姿のスタッフが患者の治療に携わる病院の日常が展開されているのでした。


 長い夢でした。しかもはっきりと記憶に残る夢でした。そして大変象徴的な夢でした。

 夢は突然の人事異動で始まりました。

 六十歳の定年を過ぎて、嘱託身分での採用年限も残り一年余りに迫って見ると、主体的に生きて来たつもりでも、運命は常に他人に委ねられていたことが分かります。

 最初の大手食品会社への就職も、採用は試験官の評価に委ねられていました。短期間でそこを辞めたのはまぎれもなく私の意思ですが、次に挑戦した地方公務員試験だって、他の受験者たちの成績が私より少しでも上位であれば、私は間違いなく落とされていた筈です。採用後、三年毎に繰り返された人事異動は、人事課の担当者たちが、たくさんの職員の勤続年数、住所、希望、思惑、家庭の事情、人脈、勤務評定などなど、無数の要素を極秘裏に検討した結果でした。最後の職場と思い定めて異動を拒み続け、十四年を超えて勤務した総合病院も、私とほとんど同年齢の職員が年度途中で県庁を辞めたために、玉突きのように私の異動が決まったのでした。その県庁に馴染めず、五十歳を機に退職したのは自分の意思でしたが、現在勤務している学校は、職を失うに当たって相談した親友が仲介してくれて採用に至った職場です。

 こうして振り返ると。所属している社会から抜けるのは自分の意思で決められますが、参加するときは、どれ一つとして自分の意思だけで決まったことはありません。進路どころか、生まれることから死ぬことまで、人生は自分の意思の及ばない人事異動の連続であるということを、夢は象徴しているのです。

 辞令のない状態で着任した職場では肩書きが不明でした。自分か何者であるかが分からないまま、周囲からは下にも置かぬ扱いを受けて、大勢の聴衆の前で挨拶を強いられるのは苦痛でしたが、これは現在の私の状況をよく表しています。

 かつて十二年間名刺に印刷されていた岐阜県ソーシャルワーカー協会長の肩書きは既に後進に譲り、現在は勤務する専門学校の専任教員の他に、東濃成年後見センターの理事長の肩書きがついていますが、教員の勤務年限はあと二年足らずに迫り、理事長職もいずれ引き際を考えなくてはならず、君は何者かと問われれば、単なる渡辺哲雄と答えて生きて行く日が来ることは分かっています。名刺の肩書きなどは、たまたま今はこのような立場で仕事をしているという説明に過ぎません。