国防を考える

平成29年10月17日(火)

 本論に戻りましょう。

 同盟国であるアメリカとの関係について考えていました。

 日本は平和国家であると自認する私たちは、少なくとも、暴力団に事務所を貸しながら、自分は決して暴力は振るわないと胸を張る、あの大家のような国家の一員でいたくはありません。だとすれば、まずは確固たる意思を持つ独立国として日本の国土から日本政府の意思の及ばないアメリカ軍基地を排除すべきでしょう。用心棒でもあるまいし、日本を守る目的だけのためにアメリカが日本の基地に軍隊を駐屯させるはずはないのです。アメリカの基地を排除することによってのみ、日本の基地からの他国への攻撃は阻止されて、わが国の姿は平和憲法の理念に一歩近づくことでしょう。その上で、国力に相応しい規模で武装したわが国が、アメリカと対等な関係で同盟を結び、相互の利益を補完し合う関係を構築しなければなりません。

 しかし、そんな日本の姿が想像できますか?

 今回の安保関連法案の成立に対する批判は、国民に対する説明不足という点にだけに集約する訳には行きません。議会制民主主義を採用している以上、国民の代表たる国会議員が議論の末に下した結論は、国民による決定です。与野党の議論が平行線に立ち至った時点で多数決で決する手続きに誤りはありません。成立した法律に不服があれば、最高裁の違憲審査権に期待するか、次期選挙において政権を再編して問題の法律を改正するしかありません。国会を取り巻く大勢の国民の声を聞くべきだという意見にも安易に与することはできません。政治手法としてそれが通用するのであれば、どんな法律案も、たくさんの反対者を国会前に集めることさえできれば成立を阻止できることになります。ましてや、反対の理由が、「戦争法案反対」とか、「平和憲法を守れ」とか「わが子を戦争にやるな」というプラカードに象徴されるような情緒的なものであるとすれば、素朴に過ぎるといわなくてはなりません。一国の舵取りは、それほど単純なものではないのです。

 日本国内にありながら、日本国憲法の及ばないアメリカ軍基地の存在を、容認するのか否定するのかを決めなくてはなりません。容認するのであれば、日本は平和国家であるなどと胸を張る安易な態度は改めなくてはなりません。否定するのであれば、様々な不利益を回避しなから、複数の国と対等に渡り合う外交能力と、それを可能にする軍備を持たなくてはなりません。武装の規模はどの程度のものであるべきなのかは、同盟国であるアメリカとの関係に左右されます。こうしたことを総合的に勘案した上で、どのような同盟関係をアメリカと結ぶべきなのでしょうか。鎌倉以降の公家の伝統のように、血や戦いを穢れたものとして意識から遠ざけて、自衛隊やアメリカ軍を日陰者のように扱うメンタリティを、平和を希求する正当な態度だと思うことをやめて、そろそろ私たちもあるべき国防の姿を真剣に考えなくてはなりません。そして何よりもわが国が置かれている国際上の位置を自覚するためにも、今回、憲法解釈の変更を起点に、あまりにも性急に実行された国防の枠組みの大変革が、同盟国であるアメリカの一方的な意向により行われたものでないかどうか、私たちは関心を持ち続けなければならなりません。日本の国政は既に特定機密法の施行の下に行われているのですから。