水神池の鯉
平成30年02月09日(金)掲載
いつの間にか月は隠れて、村はすっかり夜の闇に包まれています。その闇を引き裂くようにして、ひとかたまりの声だけが足早に浜吉の家に向かっていました。
「浜吉の野郎!それが本当なら許すわけにはいかねえ!」
「そうだとも、水神池の鯉に手をつけるなど、とんでもねえ話だ」
「みんなして袋叩きにするだ」
「水神様の罰がどんなものか思い知らせてやるべ」
「そうだとも、そうだとも」
声はどうやら網元の岩五郎と村の漁師たちのようです。やがて浜吉の家が見え始める頃、
「し!静かに!誰か来る」
突然漁師たちの声がぴたりと静かになりました。
足音が一つ、小走りに近づいて来ます。
「おとっつぁ~ん!やめて、おとっつぁ~ん、来ないで!」
「お、お咲の声でねか」
驚いて立ち止まった岩五郎の前に、お咲は立ちはだかって両手を広げました。
「おとっつぁん、やめて、浜吉さんを許してあげて。糸次郎さんは病気なのよ。それで浜吉さんは仕方なく鯉を捕ったのよ、ね、見逃してあげて」
「お咲、帰るだ、お前の出る幕でねえ!」
「いいえ、おとっつぁん、浜吉さんのところへは行かせない。どんなことがあっても行かせないわ」
「お咲、お前、まさか浜吉を…」
「そうよ、私は浜吉さんが好きよ、だから、だから助けてあげて」
「馬鹿ったれ!」
岩五郎の右手がお咲の頬で大きな音を立てました。
「網元の娘が浜吉なんぞに夢中になってどうするだ。おら許さね。絶対に許さねえぞ」
「おとっつぁん!」
「それに水神池の鯉を捕った者は半殺しにして村を追い払うのが掟になってるだ。浜吉だけ別にするわけにゃ行かね。ましてやお前が浜吉を好いてると聞いちゃ、ますます放っておけなくなったってもんだ」
「ひどい、おとっつぁん、ひどすぎるわ!」
お咲は岩五郎の足にすがりつきました。すがりつきながら一生懸命祈っていました。
こうしている間に逃げて!少しでも遠くへ逃げて!