水神池の鯉

平成30年02月09日(金)掲載

 しかし浜吉は逃げませんでした。

「おらのことはええだ。網元もまさかおらのような年寄りをどうこうはなさるめえ。お前だけでも逃げるだ。お嬢さんの好意を無駄にしてはなんね」

 糸次郎はそう言いますが、浜吉にはどうしても糸次郎を置き去りにすることはできません。

「おとう、何度も言うように、おら悪いことしたとは思ってねえ。逃げる気はねえだ。網元も村の衆も鬼じゃねえ。話せばきっと分かってくれるだよ」

 浜吉がそう言い終わらぬうちに、ばたばたと足音が近づいて、雨戸が蹴破られました。

「浜吉!覚悟はできてるな」

 恐ろしい顔で浜吉を睨みつける網元を、浜吉は睨み返しました。とても話を分かってもらえる様子ではなさそうです。

「許してやって下せえ、網元。どうか浜吉を許してやって下せえ。鯉はおらが食べました。村の掟を破ったのはおらですだ。だから浜吉は、浜吉は」

「ならねえ!」

 網元の怒鳴り声を合図に浜吉は激しい全身の痛みに耐えなくてはなりませんでした。

「浜吉、おらの言った通り、やっぱり罰は当たっただ、水神様の罰が当たっただぞ」

 狂ったように泣きわめく糸次郎の声が次第に遠くなって行きます。浜吉は薄らいで行く意識の中で、体中の力を絞り出すにして叫びました。

「罰は神さまが当てるもんだ!網元も村の衆も神様ではねえ。おらたちと同じ人間でねえか」


 たった一匹の鯉を捕ったために、浜吉と糸次郎は村を追われました。舟に乗ることも網を使うことも許されなくなった漁師は、もう村で生きて行くことはできません。ある夜、浜吉親子は遠くの親戚を頼って労わり合うようにこっそりと村を後にしました。そのあとを険しい顔つきで、どこまでもついて行くお咲の姿があったことに気がついた者はありませんでした。

 百年に一度あるかないかという大津波が村を襲ったのはそれから何日も経たない冬の日のことでした。

 大勢の漁師たちが波に飲まれました。一人娘を失った淋しさに加えて、舟も網も一度に失くした網元の岩五郎は、しばらくして海に身を投げました。

「結局おらたちは村を追われて助かっただ。水神様の罰はおらたちを追い払った村の方に当たっただよ」

 浜吉が言うと、黙ってうつむいていたお咲がぽつりとつぶやきました。

「世の中に神様なんていないわ。人間が勝手に振り回されているだけなのよ」