Ome navi
Aoume
  • 更新日 2012年2月12日
  • 裏宿七兵衛について
    七兵衛地蔵尊

    「この地蔵尊はことに足、腰の痛み、旅道中交通安全に御利益深く、平素も関東はもとより、全国より参拝、祈願する人も多く今では青梅マラソン完走祈願のランナーがお参りに参ります。」と書かれたしおりを見つけましたので特にマラソンに参加される方々に紹介したいと思います。


    由来

    享保、元文、(1716~1739)の頃、青梅村裏宿に七兵衛という農民がいました。義侠心に厚く常日頃から、貧しい者に恵むことを楽しみとしていました。また、彼はまれにみる健脚で一反(10m)のセラシ木綿を地にもつけずに風のように走り、一夜のうちに五十里(200Km)を往復するほどでした。当時打ち続く凶作に苦しむ村人を見るに忍びず自分の財産を投げ打って救済に奔走しました。そして、ふとしたことから、よこしまの道に足を踏み入れ、遠くは上州,甲州まで出かけ、その夜のうちに引き返し、この物品を村内の貧者の軒先の置き去って朝になるころには平然と、畑の仕事をしていました。しかし罪は罪、最後処刑されるに及んで、「自分は甘んじてこれを受けるが妻子にまで及ぶならば怨霊となって永久に地元を災いする」と言い残しました。その後、時世は移り変わって、七兵衛さんの所有した屋敷や田畑は、どうしたことか作物は実らぬばかりか次から次へ変わる所有者も不吉な事ばかり、(現在地も七兵衛さんの所有だった)明治になって文房具屋を開いたものがあったが、主人が亡くなり「やっぱりタタリがある」というので、大正五年頃、西多摩郡役所の屋敷に寄付をした。ところが新築工事には、怪我人が続出し、その後も、たびかさなる不可解な事件が生じて困りぬいたあげく、地元関係者有志で供養して地蔵尊を奉祀したのが現在のものです。以来この付近、町内はもとよりどこにも何ら不吉な事も起らず、地元の繁栄にも貴重な御守護神、健脚地蔵尊として崇敬され今日までに及んでおります。

    市内千ヶ瀬町宗建寺の過去帳には、「このひとの由来を尋ねてはならぬ、ただし永く永く回り向かいたすものなり」とあって、生まれや素性を調べることは、タブーとされております。ただ「五月三日、法山祖憧信士、年号不知、裏宿ノ人也、俗名七兵衛」の記録があります。《しおりより》

    七兵衛地蔵尊
    市立青梅図書館隣にある七兵衛地蔵尊
    七兵衛地蔵尊
    地蔵尊内に置かれていたしおり
    法要
    七兵衛地蔵尊大祭六月八日
    七兵衛公園
    青梅街道沿いにある七兵衛公園の碑
    七兵衛公園
    公園の奥にある供養塔
    七兵衛公園
    公園の奥にある石碑
    七兵衛の墓
    七兵衛が安置されている宗建寺
    七兵衛の墓
    宗建寺の墓地にあります
    base base base