分かり易い成年後見制度

平成27年12月07日(月)

福祉サービスと契約

 福祉サービスは長い間、措置と言って、権限のある行政が税金で救済すべき対象であるかどかを審査して提供していました。困っているので制度を適用して下さいと行政に申し出るのは「申請」であって「契約」ではありません。申請を行うのは、行政が定めた一定の範囲の人であれば、本人でなくても構いません。ところが介護保険制度が登場して事情が一変しました。要介護認定は申請行為によって行われますが、介護サービスは利用者と事業者の契約によって提供される仕組みになったのです。契約は当事者同士でしか結ぶことができません。例えばグループホームへの入居を想像して下さい。本人は在宅生活が困難な程度に認知症が進んでいます。グループホームの経営者はその人と契約を結べますか?経営者がどんなに重要事項に関する説明をしても、本人は理解しないか、説明を受けた事実を忘れてしまうでしょう。そもそも契約は双方に十分な判断能力があることを前提に成立しますから、民法は判断能力がない人 (意思無能力者といって、後見と保佐レベルの一部でしょうか?) が結んだ契約は無効と規定しているのです。そこで現実には本人に代わって親族が契約を結んでいます。しかも大半は本人の名前で契約をしているのです。思い出して下さい。未成年者を代理して親権者が契約を結ぶ場合は親権者の名前で契約を結びました。意思能力のない高齢者の親族が、代理権がないにもかかわらず、本人の名前で結んだ契約が有効でしょうか?これでは代理どころか単なる代筆に過ぎません。本人が親族に契約を結ぶ権限を委任すれば良いではないかという議論は成立しません。本人には有効に委任契約を結ぶ能力もないからです。ここでもやはり、布団事件の時と同様に、成年後見人等を選任して、正式な代理権に基づいて入居契約を結ぶ以外に方法はないのです。

 それでは親族が代筆した意思無能力者の契約でも問題なく機能して、介護報酬が行政から事業者に支払われているのはなぜでしょう。ここでも思い出してもらわなくてはなりません。民事訴訟法という法律で、提訴は直接の当事者、つまり訴えの利益のある者しかできないことになっていましたね。この場合、当事者はグループホームの経営者と本人です。経営者が契約の無効を訴えるはずがありませんし、本人には訴訟能力がありません。法的には無効な契約でも、無効を証明して提訴する者がいない限り、トラブルにはならないのです。刑事事件で言えば、スピード違反をしても、あるいは人殺しをしても、捕まらなければ普通の社会生活が送れるのと同じですね。ただし、法律を守るべき行政が、無効な契約と知りながら、おおやけの介護報酬を支払い続けるのは褒められたことではないでしょう。


終わりに

 通常はいきなり契約とか意思能力などの民法の規定から始まる成年後見制度の説明を、未成年者が成人と交わした不利益な契約に対して、親権者にどんな権限が与えられているかという事例から説き起こしてみました。未成年は未熟な判断能力しか持たないから、これを保護するために親権者に広範な権限が与えられています。だったら知的障害や精神疾患や認知症のために十分な判断能力を持たない成年についても保護が必要ではないだろうかと考えたとたんに視界が開けました。判断能力が不十分とはいっても、その程度は様々な成年の保護を、残存能力の程度に応じて、誰が、どんな権限で行うのかを考えて行くと、成年後見制度の骨格が比較的すんなりと腑に落ちました。その一方で、トラブルが提訴する資格のある者によって法廷に持ち込まれない限り、法律は知らん顔であるという、民事事件の性格を再認識する結果になりました。自由な社会はリスキーな社会であるという当たり前な前提にたどりついて見ると、成年後見制度の必要性と限界と、その利用を支援する立場の使命のようなものが改めて明確になったような気がします。

 読者の皆様にもなるほどガッテンと感じて頂ければ嬉しい限りです。