鬼夜叉と臆病弥太っぺ

平成29年12月09日(土)掲載

 臆病者の弥太郎でさえ投げ飛ばせる鬼夜叉など、もう恐れる必要はありません。村人たちは逃げて行く鬼夜叉を手に手に棒切れや小石を持って追いかけ始めました。

「違う、それは違うだよ!」

 弥太郎は途方に暮れていました。

 このままでは、あの心のやさしい鬼夜叉親子は殺されてしまいます。

「待ってくれ!みんな間違ってるだよ」

 ふんどし一つの格好のままで、夢中で走る弥太郎の目から大粒の涙があふれて止まりませんでした。


 恐ろしいことが起ころうとしています。

 鬼夜叉の洞穴の前は、黒山の人だかりでした。

「お願いだ、やめてくれ、やめて欲しいだよ」

 弥太郎が叫びます。

「一本杉でみんなを驚かしたのは実はおらの仕業だ。鬼夜叉ではねえ。それに今日の相撲だってちゃんと訳があるだ」

 でも弥太郎の声には耳を貸そうとせず、たくさんの焚き木が洞穴の前に積み上げられて行きます。

「言い伝えによると、鬼夜叉は煙には弱いはずだ。さあ、皆の衆、火をかけるだ」

 庄屋様の左手がさっと上がりました。それを合図に焚き木の山が燃え上がりました。

「鬼夜叉あ!」

「鬼夜叉あ!」

 弥太郎の叫び声が空しく響きます。見る見るうちに洞穴は、もうもうとした煙に包まれてしまいました。ああ、何ということでしょう。可哀想な鬼夜叉…。今頃、鬼夜叉親子は抱き合って苦しんでいるに違いありません。

「すまねえ、鬼夜叉、勘弁してくれ」

 弥太郎は泣きました。泣いて泣いて泣き続け、火が消えても、村人がいなくなっても、弥太郎だけは洞穴の前から動こうとはしませんでした。


 鬼夜叉…。この恐ろしい名前の妖怪が、実は心のやさしい妖怪であったことは、今ではあまり知られていません。いいえ、鬼夜叉という妖怪がいたということさえ忘れ去られようとしています。けれど一体いつの頃から始まったのでしょう。この地方のお祭りには、必ず村人たちの踊りに混じって、鬼の面を付けた親子の踊りが行われています。鬼退治の様子が踊りになったのだとも、鬼が村人と仲良く踊っている姿だとも言い伝えられていますが、もし仲良く踊っている姿なのだとしたら、あの鬼夜叉親子は死ななくて、いつか村人と仲良く暮らすようになったということなのかも知れません。