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成年後見制度と人権
4.無自覚の理由
しかしこの「易々と」というところが問題でした。支配者によって虐げられている者が、同じ人間として生を受けたにもかかわらず、国家から様々な生活上の制限を受ける不合理に憤り、支配者に立ち向かって手に入れた「自由」と「平等」だからこそ尊いのです。現にそれを獲得するために、イギリスは清教徒革命と名誉革命を、アメリカは独立戦争を、フランスはフランス革命を、時代は下がるものの、ドイツはドイツ革命を経験しています。我々は、一度も民衆レベルで支配者と闘うことなく、棚からぼたもちのように与えられた基本的人権の延長線上で、イヌにもゴキブリにも生きる権利があるなどと胸を張る楽天ぶりを発揮しているのです。
それにしても時の推移とは悲しいものです。人間は過去を情報として認識することはできても、当事者として実感することは中々できません。大名行列が通る度に道端に平伏しなければならない百姓の屈辱も、諫言が主君の逆鱗に触れて切腹を命じられた武士の無念さも、隣の藩に移動するのにも通行手形を必要とした煩わしさも、戦争について悲観的な観測を口にしただけで非国民として罰せられた恐怖も、それほど昔のことではないにもかかわらず、もはや手触りのない過去の情報でしかありません。知事が通るからといって土下座を強いられ、市長の怒りに触れると裁判もなしに処刑され、隣の県に結婚式に出かけるのにもパスポートが必要で、国政を批判すれば逮捕される状況をわが身に置き換えて想像することによって、ようやくその片鱗が理解できるに過ぎません。現在我々が当たり前のように享受している自由は、支配者ときちんと対峙した上で苦労して手に入れるべきでした。民族の性格を形成する上では、手に入れた結果よりも、苦労して手に入れる過程こそ重要でした。スーパーで買って来たものとは違って、苗から育てた米は一粒たりともおろそかにはできないものなのです。自分たちが血を流して手に入れた権利の重さについて認識を迫る歴史を持った欧米諸国に比べれば、一部の下級武士たちの手によって江戸の封建社会から天皇主権国家に移り、占領軍の主導によってあっという間に国民主権国家に移行したわが民族が、権利について子供のように無邪気であるのは仕方のないことなのかも知れません。いえ、海に囲まれて国を閉ざし、いわば内輪だけの暮らしを長期間続けて来た日本民族の遺伝子には、身近な人間の思惑には、ちまちまと気を配る一方で、大きな運命は常に海の外からやって来て抗い難いのだという、あなたまかせの楽天性があるような気さえします。しかし、だからこそ我々は権利という近代社会の価値を、その獲得の歴史に思いを馳せて認識しなければならないのです。
5.契約
大変長い前置きになりました。
近代国家が個人の権利というものをいかに尊重して運営されているかということを念頭に置いて、さあ、ここからが成年後見制度の説明です。
権利の主体が個人であるということは、言い換えれば。個人の「意思」が不合理に制限を受けてはならないということです。意思が制限を受けない状態を「自由」と言い、不合理に制限を受けることを「差別」と言います。そして、国家が個人を法的に差別しないことを「法の下の平等」と言うのです。
「憲法なんて理想論だぞ。生まれつきカネもちもいれば貧乏人もいる。頭のいいヤツもいれば、悪いヤツもいる。そもそも人間が平等のわけがないだろう」
という声を聞くことがありますが、よく読んでみてください。
『すべての国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない』
憲法は国民を「法の下に」平等だと言っているのです。女であるという理由だけで就けない職業があったり、特定の地域の出身であるという理由だけで発言の機会を奪われたりしてはいけません。差別をする法律はなくても、現実の社会慣行に見過ごせない差別があれば、例えば男女雇用機会均等法のように、国家はそれを是正する法を設けて憲法の理念を実現するのです。
憲法は個人の意思の自由を尊重するために、「参政権」や「社会権」に先んじて、思想、信教、表現、居住、職業選択、逮捕の要件、住居への不可侵などの、いわゆる「自由権」を具体的に明記しています。国家は個人の意思への関与を憲法で厳しく戒めているのです。当然、個人の意思と意思との一致によって成立する「契約」には、国家つまり法律は介入できません。介入する場面といえば、契約の内容がいわゆる公序良俗(公の秩序又は善良な風俗)に反する場合の外は、契約が「錯誤」による場合、「脅迫」による場合、「詐欺」による場合の三つに限られます。しかし初めから対等とは言い難い立場の契約の場合には、例外として、弱い立場の側を保護する法律が設けられます。例えば雇用主に比べて圧倒的に立場の弱い労働者を守るためには労働基準法がありますし、大家に出て行けと言われたら、たちまち暮らしに困る借家人を守るためには借地借家法があります。同様に、経済活動の規模が巨大かつ複雑になり、契約の当事者、つまり事業者と消費者との間の対等な関係が崩れ、情報量においても交渉力においても、圧倒的に事業者に有利な状況が生まれると、国家の関与を排除して契約を野放しにしておいては、余りに消費者が弱い立場に立たされてしまう事態が生じました。そこで「訪問販売等に関する法律」が「特定商取引法」に改正され、訪問販売だけでなく、通信販売、電話勧誘販売など、消費者の冷静な判断を妨げる恐れのある販売方法についても、一定期間(通常8日)であれば無条件で申し込みの撤回または契約解除を可能にするクーリングオフ制度の適用になりましたし、同時に成立した「消費者契約法」では、事業者の行為によって消費者が誤認し、または困惑した場合には、契約の申し込みまたはその承諾の意思表示を取り消すことができるようになりました。これによって、いつまでも居座って物を売りつけたり、一部屋に閉じこめて物を買わせたり、元本保証のない金融商品を絶対に儲かると言って勧誘したような場合の契約を無効にすることができるようになりました…と、こう書けば、消費者にとって随分と安心な社会になったように思われるでしょうが、クーリングオフ制度は一定期間内に消費者自身が契約解除をしなければ失権しますし、当然のことながら、被害者が契約の無効を司法に訴えなければ、民法も消費者契約法も発動しません。労働者が黙っていたのでは労働基準法も適用されず、横暴な大家の言いなりなっていたのでは、借地借家法も借家人を守らないように、どんなに消費者を保護する制度が整備されたとしても、被害を受けた側が制度を活用しなければ、弱者は弱者のまま放置されるのです。