- ホーム > 成年後見制度と人権/目次 > 成年後見制度と人権
成年後見制度と人権
6.判断能力
それでは、契約時点において一方の判断能力に問題がある場合についてはどうなのでしょう。
自由平等な人間は理性的な判断と合理的な行動ができるものであるという前提の下に、国家は個人の契約には関与しないことにしているのですから、詐欺、錯誤、脅迫同様、どちらかの判断能力が契約内容を正しく理解できない程度に欠如していれば、契約は初めから無効です。しかし、正しく判断できないまま契約を結んで不利益をこうむった場合、能力の欠如をいったい誰が立証して裁判に訴えるのでしょう?身近にサポートしてくれる人でもいない限り、判断能力に問題のある人が弁護士に依頼して契約無効の裁判が起こせるとは思えません。また、運良くその契約被害については法的救済ができたとしても、次にまた同じような契約を結んで不利益な立場に立つであろうことは十分想像ができます。反対に、本人の契約能力について相手方が不安を抱けば、必要な契約が結べない可能性だってあります。つまり、判断能力の不十分な人は、不都合な契約を結んで不利益な立場に立たされたり、必要な契約が結べないで困った状態に陥ったりする可能性が高いのです。
わかり易くするために、最近物忘れや勘違いが激しくなった一人暮らしのお年寄りを想定してみましょう。ある日、人の良さそうな男が現れ、親切めかしてさんざん不安を煽ったあげく、不必要な耐震補強工事の契約書に署名捺印をさせ、法外な工事費用が毎月通帳から引き落とされるようになりました。たまたま帰省してその事実を知った息子は、驚いて警察に相談に行きましたが、
「ふむ…、しかしお父さんは納得して契約なさったのでしょう?」
刑事事件ではないので警察では扱えないからと、消費生活センターを教えてくれました。
センターの職員は、最近そういう相談が増えているのだと顔を曇らせて、
「結局、法的手段に訴えない限り具体的な解決は難しいですよ」
消費者被害に詳しい弁護士を紹介してくれました。
弁護士は床下の柱に意味のない金具がたくさん打ち付けられている様子を見て、
「これは悪質ですね…」
前述した消費者契約法を根拠に提訴する方針を、内容証明付きの書面で業者に伝えたところ、きっと他にも後ろ暗いところがたくさんあるのですね。業者は慌てて交渉に応じ、契約を無効にして費用は返還されました。
解決したという連絡を弁護士から受けて二か月ぶりに実家に帰り、
「よかったなあ、おやじ。カネは取り戻したぞ」
二度と怪しい業者の話しに乗るな、と言おうとした息子は、今度は部屋の隅に4組の羽毛布団を発見します。
「一人暮らしだぞ、どうして4組も…」
父親の通帳を見ると、幸い布団のローンの引き落としはまだのようでしたが、生活費にしては大き過ぎる金額が毎月定期的に引き出されていました。聞けば、生活費を下ろすためにタクシーで銀行に行く度に、親切な運転手が払い出しの手続きを手伝ってくれるのだと父親は嬉しそうに笑っています。通帳と印鑑を持参して本人が窓口に出向いた以上、銀行も、運転手が付き添っているからといって払い出しを拒否する理由はないのですね。息子は認知症の父親に群がる複数の悪意を感じました。4組の羽毛布団の被害については、耐震工事と同じ方法で対処するとしても、遠方に住む自分には、これから先、父親の身に予想される被害をどうすることもできません。そこで、長い間の無沙汰を詫びて、比較的近くに住む従弟に父親の通帳と印鑑の管理を依頼すると、困ったときはお互い様だと従弟は快く引き受けてくれました。キャッシュカードを作れば本人が銀行に行かなくても現金はATMで従弟が下ろせます。月に一度、生活費を下ろしては父親に届ける煩わしい仕事を引き受けてくれた従弟に、血縁の有難さを改めて認識した息子でしたが、その年の暮れ、愕然とする事実に直面することになりました。退職金を含めて積み立ててあった、まとまった金額の定期預金がすっかり下ろされていたのです。
「資金繰りに困って叔父さんに相談したら、お前には世話になってるからこれを使えって…」
「そんなこと本当に言ったのか?おい、おやじ!」
何のことやらよく解らないのでしょう。父親はにこにこと笑っています。その様子を見て、息子は父親の施設入所を決断したのでした。
7.委任契約
さあどうでしょう。高齢社会を迎えたわが国では、こんな事態が実はあちこちで起きているのです。従弟を信頼して通帳や印鑑を預ける行為を委任契約と言います。この場合は親戚のよしみで、口頭で委任がなされたわけですが、思いがけない結末になってしまいました。そこで、頼れる親戚も知人もないお年寄りのために、財産を管理したり、入院、入所の保証人を専門に引き受ける非営利法人が出現しました。本人との委任契約に基づいて有償で財産管理等を行う団体ですが、法人は玉石混合で、預かった預貯金を横領したり、死亡したときは遺産を法人に寄付する内容の遺言が委任契約の書類の中にさりげなく含まれているといった不適切な例が見られるのも事実です。考えてみて下さい。判断能力の衰えた寄る辺のないお年寄りが、内容をしっかりと理解できないまま委任契約を結んで全財産を預け、通常は時間の経過とともにさらに判断能力を失ってゆくのです。先ほどの従弟ならずとも、その気になれば財産は預かった側の欲しいままでしょう。しかも不正を監視する者が誰もいません。そもそも判断能力に問題のあるお年寄りと結んだ委任契約が有効であるかどうか、大いに疑問のあるところですが、繰り返し述べて来たように、個人の自由を重んじる立場に立つ近代国家は、私的契約には関与しないのです。問題が生じる都度、不利益を受けた者が、契約時点での能力欠如を証明しては、契約の無効を争うしかありませんが、それはほとんど不可能です。セキュリティの高いマンションは外からの侵入を防ぐ一方で、救急隊も容易には入れないように、国家から固くガードされた個人の「意思の自由」という権利は、正しい判断能力に基づかない契約についても守られてしまうのです。