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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第百三十七回》ふるさとの文化財

    天寧寺てんねいじ銅鐘どうがね
    【国指定重要美術品】
    掲載日 平成24年8月15日

    東青梅の駅から成木街道沿いにある四小の横を通り、「根ヶ布」の信号を右に折れ、天寧寺坂通りをしばらく行くと、大きな木々に囲まれた七堂伽藍が整備された曹洞宗の名刹「高峰山天寧寺」があります。その山門をくぐると左手に入母屋造いりもやづくりの鐘楼が見えます。そこには高さ123・3cm、口径67・3cm、厚さ7・3cmの銅鐘がつるされています。

    仏教と共に日本に伝来し、鐘の音は時計のなかった時代に朝・昼・晩と野を超え谷を渡って村々に鳴り響き、時を知らせてきました。この鐘の池の間と呼ばれる全区に銘文が刻印されており、その中の一面には『大檀那おおだんな平氏朝臣あそん将門之後胤こういん三田弾正忠だんじょうのちゅう政定 刻鐫こくせん大工源定次 大永元年辛巳孟冬かのともうとう十日』と刻印されていることから、平 将門の子孫を名乗っていた三田弾正忠政定が大永元年(1521)に寄進したものと考えられています。

    三田氏は13世紀末から永禄年間(1558~1570)前期までの約300年間武州杣保そまほ(羽村から西方の多摩川流域)を支配していた豪族です。全盛を誇ったのは、16世紀初頭の氏宗・政定父子の時代で、市内にある社寺造営や仏像の修理を行っています。また、刻鐫大工源定次とありますが、鋳工の名前はありません。しかし、千葉県の清澄寺・茨城県の大宝八幡の銅鐘の撞座つきざが同一原型であることから塚田(現埼玉県寄居町)の大工道禅(善)の鋳たものであるとされています。また、道禅(善)以前はほとんどが相模の鋳物師で武蔵の鋳物師は確認されていません。

    奈良時代から平安時代前期の鐘は撞座の位置が高く、鐘身の中央に近い位置にあるのに対し、平安時代末期以降の鐘は、撞座の位置が下がる傾向にあるといわれており、天寧寺の撞座は19・1cmのところにあります。また、南北朝時代の鐘の特徴の一つとして、口径が60cm前後であることから、南北朝後期に造られたものであると考えられています。

    昭和23年に国の重要美術品に認定されました。

    市文化財保護指導員
    儘田 小夜子

    天寧寺の銅鐘

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