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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第百二十五回》ふるさとの文化財

    天寧寺てんねいじ三田氏位牌みたしのいはい
    【青梅市指定有形文化財】
    掲載日 平成23年8月15日

    鎌倉時代から戦国時代の永禄年間(1558~1570)まで、青梅市とその周辺地域を支配していたのは三田氏でした。青梅市や奥多摩町は「三田谷」と言われ、江戸時代まで「三田領」という呼び方をしており、古文書にも数多く記載されています。

    三田氏は市内の勝沼城を本拠地としていましたが、北条氏に攻められ、市内二俣尾の辛垣城からかいじょうでの攻防戦に敗れます。領主三田弾正少弼綱秀みただんじょうしょうひつつなひでは自害し、三田氏は滅亡してしまいます。

    しかし、わずかに残った三田氏の家臣は、その後もその土地に残り、支配者は変わってもずっと三田氏の菩提を弔い続けていました。

    天寧寺にある「三田氏位牌」は三田氏の旧臣である野口刑部少輔秀房のぐちぎょうぶしょうゆうひでふさが旧主三田綱秀の没後64年を経た寛永4(1627)年に作り、同寺に納めたものです。

    位牌は、木製で高さ62.7cm、上部は日輪のような、直径11.8cmの朱塗りの円形に作られています。黒漆塗りの本体は幅9.3cm、厚さ9mmの板が高さ7.5cm、幅18.6cmの台にはめ込んであります。文字は全て朱漆で書かれています。

    表面には「将門平親王朝臣三田代々尊霊まさかどたいらのしんのうあそんみただいだいそんれい」、裏面は5行にわたり漢文調で三田氏の出自しゅつじと滅亡のいきさつが書かれています。要約すると「三田氏は平 将門から74代の子孫であるが、永禄6年滅亡し、子どもも家臣もみな絶え果ててしまった。野口だけが89歳まで生き残っている。後の世の覚えのために、御先祖の位牌を御菩提所にたてまつる」となります。文字は野口刑部の自筆と伝えられています。

    天寧寺は、文亀年間(1500年ごろ)三田氏宗(綱秀の祖父)を開基とし、大永元(1521)年には三田政定(綱秀の父)が銅鐘を寄進するなど、三田氏ゆかりの曹洞宗の寺院です。このようなことから、野口刑部は天寧寺に三田氏の位牌を納めたものと思われます。

    また、野口刑部はこれとほぼ同じ位牌をあと2基作り、金剛寺(森下町)と海禅寺(二俣尾)にも納めています。位牌はすべて青梅市有形文化財に指定されていますが、海禅寺の三田氏位牌は火災により焼失してしまいました。

    天寧寺は根ヶ布にあり、JR青梅線東青梅駅下車徒歩20分です。

    市文化財保護指導員
    小島 みどり
     参考資料
    『青梅文化財・史跡・天然記念物』より
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