軍畑駅のすぐ東側に架かる奥澤橋梁は、橋長約106m、橋高約39mの規模です。鎧塚はその直下にあります、直径約30m、比高約9mの小丘です。そこは、秩父地方や成木から柚木町や八王子を経て鎌倉へ向かう、鎌倉街道の途上に位置しています。
鎌倉時代から室町時代中期にかけての多摩川中流域は、東青梅の勝沼城を本拠地とする三田氏が支配していました。長い間、平穏な時代が続いていましたが、15世紀末ごろから、それまでの守護大名に代わって戦国大名が台頭する戦国時代になり、以降、約100年間、下剋上の風潮が一世を風靡するようになりました。三田氏は当初、北条早雲を祖とする戦国大名の小田原北条氏に従っていましたが、両者の関係は1560年ごろから険悪になりました。
『谷合日記』によると、永禄六(1563)年三月、小田原北条氏が多摩川を渡って、辛垣城に立て籠もる三田氏を攻撃して来ました。数時間の戦闘の後、三田勢の敗北で終わり、多くの戦死者を出しました。『武蔵名勝図会』には「合戦の後に討ち死せしものの兵具を埋たる塚なり」と書かれているように、戦で命を落とした武将の甲冑・武具などを埋めて、この鎧塚を築いたと言います。
現在、塚の前には宝暦十(1760)年三月の、伊奈石製の地蔵尊が祀られています。また、塚の上には鎧塚大明神の小祠が祀られていて、享保十六(1731)年の建立です。
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