Ome navi
Aoume
  • 更新日 2016年1月15日
  • 青梅市「広報」より
    《第百八十八回》ふるさとの文化財

    清戸三番衆状きよとさんばんしゅうじょう
    【市指定有形文化財】
    掲載日 平成28年11月15日

    青梅市域を含めた多摩川上流一帯は、鎌倉時代以降、東青梅の勝沼城を根拠地としていた三田氏が支配していました。しかしながら、永禄6(1563)年3月の戦争で(あるいは永禄4年7月ごろ)、小田原を本拠地としていた北条氏に敗れたため、以降、付近一帯は北条氏の勢力下におかれました。勝沼城には、師岡将景もろおかまさかげが新しい城主として入り、師岡城と呼ばれるようになりました。

    時は戦国時代です。周囲には、常陸国の佐竹氏、下野国の宇都宮氏、陸前国の伊達氏、甲斐国の武田氏、三河国の徳川氏などが勢力を競っていました。北条氏は敵の攻撃に備え、機会あるたびに勢力下の武士団に結集命令書を発し、あるいは檄を飛ばしていました。

    「清戸三番衆状」は、永禄7(1564)年5月23日に、多摩川上流域に在住する41人の旧三田氏家臣団に向けて出された命令書で、幅約188cm、高さ約15.6cmの大きさです。

    そこには、「清戸三番衆/三田治部少輔じぶしょうゆう/五騎師岡采女佑もろおかうねめのすけ/三騎藤橋小三郎」で始まり、後半は「右、清戸二番衆、当月十九日ニ在所を立、先番二替候、…、三田谷各在々所々を打立、五以前箱根賀崎にて相集、此御書立二引合、一騎茂無不足いっきもふそくなき、又無遅参様ちさんなきよう、引そろへ召す列」と書かれています。簡略して述べると、「清戸三番衆に属する三田治部少輔・師岡采女佐・藤橋小三郎などは部下を引き連れ…三田谷の各所を出発し、午前8時以前に箱根ヶ崎に集合し、遅れないよう、また一人でも不参加の者が無い様にせよ」とあり、さらに「遅れた場合には処罰する」という厳しい内容の命令書です。

    本史料は非公開ですが、複写物は郷土博物館に保存され、また、当時の詳細な状況は「青梅市史」に述べられています。

    問い合わせ 郷土博物館 ☎23-6859

    市文化財保護指導員
    角田 清美
    清戸三番衆状
    清戸三番衆状
    base base base