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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第九十九回》ふるさとの文化財

    海禅寺かいぜんじ三田氏墓みたしのはか
    【東京都指定旧跡】
    掲載日 平成21年6月15日

    鎌倉時代から戦国時代の永禄年間(1558~1570)まで、青梅市とその周辺地域を支配していたのは三田氏でした。そのため、青梅市や奥多摩町は「三田谷みただに」と称されていました。根拠地は勝沼城で、塩船観音寺・報恩寺・武蔵御嶽神社などの社寺を保護しています。

    永禄の時代は戦国の真っただ中。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、川中島で合戦を繰り返したのもこのころ。武蔵野も繰り返し戦場となり、南北の将兵たちが往来し、三田谷も平穏ではありませんでした。元八王子に拠点を構えていた北条氏が永禄5年(1562)春から攻略を始め、6月には金剛寺に寺領安堵状じりょうあんどじょうを出しています。これに対し、三田氏は二俣尾の辛垣山からかいやまに辛垣城を構え、北条氏に対抗する備えとしました。

    谷合家「日記」によると、永禄6年3月、北条の軍勢が梅ヶ谷(うめがた)峠を越え、多摩川を渡って攻めて来ました。守る三田勢は、騎馬武者80騎と部下や雑兵たちで、一挺の鉄砲を持っていました。戦闘の最中、三田勢の一人であった塚田大炊助おおいのすけが寝返り、城内に放火したため落城してしまいました。城主の三田綱秀は北小曾木を経て、成木二丁目の合戦坂を越え、岩槻の太田氏を頼って落ちていき、ついにはその地で自害したとのことです。

    二俣尾駅の近くにある海禅寺かいぜんじの境内には、三田氏墓(供養搭)・四基が祀られています。天正18年(1590)に北条氏が滅亡してから後、江戸時代初期ごろに三田氏の関係者が建立したと伝えられています。現在、三田氏墓は東京都の旧跡に指定されています。

    海禅寺は青梅線の二俣尾駅から、徒歩で約3分の場所です。

    市文化財保護指導員
    角田 清美
     参考資料
    『青梅文化財・史跡・天然記念物』より
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