掲載日 平成15年2月15日 |
「万年橋」と称されるのは、「万年、すなわち一年中、いつでも両側から往来できる橋」であることを意味しています。 江戸時代には一年中、多摩川の両岸を往来することができる橋が3か所あり、「多摩の3万年橋」と称されていました。 そのひとつが日向和田駅近くの二俣尾1丁目と梅郷5丁目を結ぶ「神代万年橋」でした。 神代万年橋は現在の神代橋より約70メートル上流側で、両岸から岩が突き出ている場所に架かっていました。 明治30年に大柳の万年橋が架けられるまで、多摩川にはこれより下流に万年橋はありませんでしたので、大雨や台風に伴って、流れる水量が非常に多い時期には、羽村や福生の人たちも対岸との往来に利用していました。橋台の跡に行くには、「へそのを観音」の裏から細い踏み分け道を下っていきますが、かつては、それより上流に幅一間前後の道路があったようです。 文政9年(1826)の、『新編武蔵風土記稿』には、神代万年橋の規模は、「長さ18間幅6尺許」と記録されています。詳細については不明ですが、文政2年(1819)ごろに架橋されたようであり、これより下流にはいつでも渡れる橋がなっかたので、地域住民にとってはたいへん貴重な橋であったことがわかります。 現在、川岸の北側に残っている橋台は、幅約2.5m、延長約5.8m、高さ2m前後の規模で、残されている橋台の高さから、当時の橋は多摩川の水面から10m前後の高さであったと推定されます。 (昭和28年、市の旧跡に指定) | |
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市文化財保護指導員 角田 清美 | ||
神代万年橋の図 『新編武蔵風土記稿』より 参考資料『青梅文化財・史跡・天然記念物』より |
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