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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第三十六回》ふるさとの文化財

    根岸典則墓ねぎしつねのりのはか
    【東京都指定旧跡】
    掲載日 平成16年3月15日

    根岸典則ねぎしつねのりは江戸時代の後半に活躍した青梅の文化人です。 宝暦八(1758)年に青梅縞の問屋をしていた本町の根岸喜右衛門の長子として生まれ、天保二(1831)年に没しました。 父は洗雪、母は綾衣という俳号があり、凉宇と号す叔父がいて、文化人たちに囲まれた中で育ち、8歳の年には父の追悼句集「冬こだち」が出版されると、宣水きすいという号で追悼句を作るほどの力量がありました。

    そのころの青梅は青梅縞や青梅綿をはじめ、石灰や木材、炭など生産と流通によって経済的に豊かで活気にあふれるとともに、大きな文化の花が開いたときでした。 金剛寺碑の碑文や高水山の不動堂の扁額等を書いた書家の小峰峯眞、その孫で住吉神社拝殿の天井画や当時の文化人の画像等を措いた画家の小林天淵、また雪洞玄岩や浄月律師たちが活動していたのもこのころです。

    典則は、京部から常保寺に寄ぐうしていた中原 章から和歌や歴史など古典の基礎を、漢学を儒学者荻生徂徠の学統である井上金峨に学びました。 また、京都へ赴いて日野資枝卿にも和歌の教えを仰ぎ、さらに禅を峨山和尚より修めるなど広く深く研さんし、青梅の文化の発展に大きな足跡を残しました。 著書も多く青梅の風景や生活を漢詩で詠んだ「嶰谷かいこく詩集」、神代から中世までの日本史のエピソードを漢文で綴った「扶桑蒙求ふそうもうきゅうは明治初期の教科書にも載りました。

    典則の墓地は千ヶ瀬町六丁目の宗建寺にあって、昭和2年に都の旧跡に指定されました。宗建寺は青海市街の住江町の信号を下りたところにあいます。

    市文化財保護指導員
    棚橋 正道
     参考資料
    『青梅文化財・史跡・天然記念物』より
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