宮ノ平駅から永山丘陵ハイキングコースを登り、稜線に出た地点に標高383mの矢倉台があります。
鎌倉時代後期から室町時代後期にかけて、青梅地方、かつての杣保
に拠点を置いた豪族 三田氏は、代々東青梅の勝沼城に居住していました。 しかし、北条氏照の八王子滝山入城による、多摩地方の情勢の変化を受け、永縁年代(1558~1569)の初めごろ、北条氏の攻撃に備えて三田氏は二俣尾の辛垣山に城を築いたといわれています。 物見櫓(矢倉台)は、この辛垣城(別名西城)から南東約3㎞に位置し、北条氏の動向を見張る戦略上、重要な場所であったといわれます。
矢倉台は、写真に見るように、多摩川周辺の眺望に恵まれています。 ことに多摩川右岸の様子が一望できます。 この右岸には、日の出町玉の内から峠を越えて和田町の明治橋に出て来る秩父鎌倉道(馬引沢峠越)、日の出町落合から峠を越えて梅郷の杉平に出て来る秩父鎌倉道(梅ヶ谷峠越)があります。 鎌倉道はここから吉野街道南側の山際を西に向い、柚木から軍畑の渡しで多摩川を渡ると、辛垣城の直下となります。
今をさかのぼること四百三十余年前、三田氏の斥候は辛垣城から峰伝いのこの物見櫓で、北条の軍勢を見張っていました。
永禄6年(4年とする説もある)、辛垣城は落城、三田氏は滅び、物見櫓もその歴史的使命を閉じます。 武蔵名勝図会(文政3年・1823刊行)には「柵跡、ここは二俣尾の城より峰続き、三田氏居城のころ、この山に砦を構えて遠見の地なりしゆえ、この地をまた櫓台とも唱う」と書かれています。
今、矢倉台に立ち、この眺望に接して歴史への想いをはせて眺めてみると、また格別な感傷に浸ることができます。
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