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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第十三回》ふるさとの文化財

    藤橋城跡ふじはしじょうあと
    【青梅市指定史跡】
    掲載日 平成14年4月15日

    藤橋城跡は市内藤橋2丁目で、武蔵野台地が北側の霞川低地に突出する、台地の端に位置しています。

    低地からの比高は、5~6mです。 城跡は長方形の曲輪くるわが1つだけで、空堀と土塁が取り囲んでいます。 曲輪の広さは、東西約50m、南北約60mです。 土塁の北西端部は櫓台やぐらだいがあったと推定される3~4坪程度の方形をした平坦地があり、また土塁の南西端でも舳先のような形で、曲輪の平坦地よりも3m前後高くなっており、ここにも櫓台があったようです。 土塁の外側には、空堀が取り囲、さらにその外側にも土塁がありました。 外側の土塁は北東側では、空堀との比高で1m前後が残っていますが、その他の部分では消滅しています。

    今寺の1里塚のエノキから、北東方向に向かう道路は、城跡とそれに近接する飲食店の間を通っていますが、道路の位置は昭和40年ごろまでは空堀で、道路はかつての空堀に設置されています。 飲食店とその隣2軒の場所は、北東から南西に延びる土塁があった所で、飲食店の南側を迂回して伸びる小道は、かつての外側の土塁の下を通っていたものです。

    このように、外側の土塁と空堀は、城跡の北東側では、かろうじて残っている程度です。 城跡の北東には、城跡から続く平坦地が約50mの長さで、半島状に延びていますが、ここに櫓台がありました。 飲食店から南西方向へ約50m離れた場所は五差路で、そこから小道が北東方向へ延び、途中からは浅い窪地となって北方へつながっていますがここも空堀の跡です。 いわゆる「外堀」です。

    この藤橋城の城主は、清戸三番衆状の三番目に出ている藤橋小三郎であったともいわれています。 武蔵七党の中の日奉党ひまつりとう平山季重の後裔といわれます。 築城や落城についての資料はありませんが、小田原北条氏の配下であったと推定され、天正18年(1590)の小田原北条氏の滅亡とともに落城したと考えられます。

    城に関わりがある地名として、「城ノ腰」と「城ヶ崎」があります。 城ノ腰は藤橋城の北側一帯の低地で城ケ崎は南側一帯です。

    藤橋城跡は、市指定史跡(昭和28年11月指定)です。 東青梅駅または、河辺駅から西武バスの『入間市駅行き』に乗り、「今寺榎」下車、徒歩5分のところにあります。

    市文化財保護指導員
    角田 清美
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