掲載日 平成26年2月15日 |
慈眼院を含めた平坦地は、東西約160m、南北約50mの広さです。この地で江戸時代初期に石灰焼きを始めた木崎平次郎は、付近の有力者でした。慶長十一(1606)年、江戸幕府の代官だった大久保長安が、「江戸城の外壁に使用するため、石灰を生産し、江戸へ送るように」と指示を出した際、佐藤助十郎や川口弥太郎などと共に指示に従い、石灰を生産しました。 原料の石灰岩は、東側に聳える山地の山頂に埋蔵していて、採掘場はホンマと呼ばれていました。採掘された石灰石は人頭大より大きく、ホンマから谷底まで延びる、滑り台に似た石落しで落とされました。大きな石灰石は谷底で拳大に砕かれ、そこから窯跡の近くまで、 窯跡は高さ約3・6m、長さ約16mの石垣で、その前は約15×15mの平坦地となっています。石垣に寄り添うように、約10×10mで、高さ約4mの燃料が積まれ、その上に砕かれた石灰石が積み上げられました。約1週間の焚き上げが行われると、石灰石は 慈眼院の墓地の中央には、木崎平次郎の墓とされる 境内の子安神社には、写真の石灰採掘の絵馬が奉納されています。 問い合わせ 郷土博物館電話23-6859 | |
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市文化財保護指導員 角田 清美 | ||