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  • 更新日 2014年3月15日
  • 青梅市「広報」より
    《第百五十五回》ふるさとの文化財

    所久保の石灰窯跡ところくぼのせっかいがまあと
    【市指定史跡】
    掲載日 平成26年2月15日

    所久保ところくぼの石灰窯跡へ行くには、東青梅のバス停から上成木行きのバスに乗り、バス停「滝成」で下車します。そこからは、バス路線に沿って上成木の方へ約350m進むと、慈眼院じげんいん前へ向かう道があります。市の史跡に指定されている石灰窯跡は、墓地の東端にある雑木林の中に位置していますが、関連する遺跡は、東側にそびえる山地を含めた付近一帯です。

    慈眼院を含めた平坦地は、東西約160m、南北約50mの広さです。この地で江戸時代初期に石灰焼きを始めた木崎平次郎は、付近の有力者でした。慶長十一(1606)年、江戸幕府の代官だった大久保長安が、「江戸城の外壁に使用するため、石灰を生産し、江戸へ送るように」と指示を出した際、佐藤助十郎や川口弥太郎などと共に指示に従い、石灰を生産しました。

    原料の石灰岩は、東側に聳える山地の山頂に埋蔵していて、採掘場はホンマと呼ばれていました。採掘された石灰石は人頭大より大きく、ホンマから谷底まで延びる、滑り台に似た石落しで落とされました。大きな石灰石は谷底で拳大に砕かれ、そこから窯跡の近くまで、地車じぐるまと呼ばれる一輪車で運ばれました。

    窯跡は高さ約3・6m、長さ約16mの石垣で、その前は約15×15mの平坦地となっています。石垣に寄り添うように、約10×10mで、高さ約4mの燃料が積まれ、その上に砕かれた石灰石が積み上げられました。約1週間の焚き上げが行われると、石灰石はせい石灰となり、それに水がかけられてしょう石灰が生産されました。

    慈眼院の墓地の中央には、木崎平次郎の墓とされる宝篋印塔ほうきょういんとうがあります。宝篋印塔の文字は判読できませんが、五輪塔は妻の墓と考えられ、「寛文四年(1664)四月」と彫られています。

    境内の子安神社には、写真の石灰採掘の絵馬が奉納されています。

    問い合わせ 郷土博物館電話23-6859

    市文化財保護指導員
    角田 清美
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