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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第百四十五回》ふるさとの文化財

    佐藤塚さとうづか
    【市指定史跡】
    掲載日 平成25年4月15日

    青梅市の北部に位置する「成木」地区は、江戸時代初期から明治時代前期にかけての約270年間、西多摩地区では裕福な地域でした。多くの人々が、仕事を求めて成木地区へ足を運んだといいます。

    成木での仕事は、石灰焼きでした。

    成木地区で大規模な石灰焼きが始まったのは、慶長11(1606)年でした。この年の3月、徳川幕府は江戸城の大規模な増改築に着手し、9月には完成の目処が立つ状態になりました。最後の仕上げとして、江戸城の城壁を白亜の漆喰壁にするため、老中職から成木地区を管轄する代官の大久保長安へ、漆喰壁に使用する石灰の供出が命じられたのです。

    成木地区では、それまでは質素な生業として石灰焼きが行われていましたが、大久保長安の命令で、消石灰の大量生産が始まったのです。生産に応じたのは、佐藤助十郎・木崎平次郎・川口弥太郎・野村庄七郎の4名でした。4名は恐らく、地域の有力者であったのでしょう。以降、石灰焼きは、成木地区に興隆をもたらし、江戸や八王子などから、多額の資金が入って来ました。

    佐藤塚は、スギの巨木の根元に建てられている二基の五輪塔で、佐藤助十郎と妻の墓とされています。向かって右側の碑は全高約124センチで、地の部分に辨空常察居士・正保二年と彫られ、左側の碑は全高約127センチで、地に玉窓妙□大姉・正保年と彫られています。このことから、右側は男性、左側は女性を祀っており、いずれも正保2(1645)年に建立されています。

    昭和58年、道路を挟んだ塚の東側にある、ブロックを築く際、窯跡が発見されました。北西側を流れる松ノ木沢の対岸、約100メートル離れた山腹には、ホンマと称される、材料の原石を掘り出した跡が残っています。

    佐藤塚は軍畑駅から北方へ、榎峠を越え、徒歩で約50分の距離です。

    市文化財保護指導員
    角田 清美
    佐藤塚

    佐藤塚

    佐藤塚

    佐藤塚

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