寺の境域は、市の史跡になっています。 よく整備されていて真言寺院の風格があり、古い歴史を感じさせます。 元慶年間(877~884)元喩和尚の開創といわれ、建久年間(1190~1198)源 頼朝が、畠山重忠に命じて造営し、印融和尚が中興したと伝えられています。
愛宕山明王院と号し、江戸時代には、徳川幕府から明王堂領として三石の朱印状を寄せられています。 愛宕権現の別当寺でもあり、元禄6年(1693)再興の記録があり、明王堂の本尊であった不空羂索大忿怒明王が、寺の本尊となっています。 大永年間(1521~1527)と明治31年(1898)に火災にあい、本堂などを焼失しました。 現在の本堂は、昭和14年(1939)に建てられたものです。 即清寺といわれるようになった年代は、はっきりしませんが、寺にある畠山重忠の位牌の法名「勇讃即清大禅定門」から即清寺となったと思われます。
弘化2年(1845)「調布玉川惣画図」として出されたものが、このほど「多摩川絵図」として復刻され、それによると即清寺が柚木の東端に大きく載っていて、二層の山門、向かいに本堂、庫裡、僧坊まである立派な寺です。 山門の2階には、百観音が安置されていました。 明治の火災のとき、村人が百観音をつぎつぎに運び出して救ったという話を聞いています。 山門の中にある増長天、持国天もそのとき助かったものです。
裏山から愛宕山奥の院まで、四国八十八ヵ所にちなんだ石碑郡があります。 幕末に寺の和尚が四国八十八ヵ所の土を持ち帰り、作り始めましたが、病気で亡くなったため、その後多くの人々により完成しました。 石碑には、各札所の本尊やご詠歌が刻まれています。
寺の東を流れる沢を明王沢といい、あるとき本尊の首が落ちていたのでこの名がつき、沢にかかる橋を明王橋といいます。 山門下の吉野街道は、以前はかなりの急坂で、大門坂とよばれていました。
(所在地は、柚木町1-4-1、都営バス即清寺バス停下車)
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