日本の劣化

令和5年12月26日

「それじゃ家庭を営んだ経験もないじゃありませんか。そんな男が専門職として子育ての相談に乗ってるのですか?」

「受理面接とか言って、ざっと話を聴いて専門職につなぐ役割のようですが、こちらにしてみれば最初に事情を打ち明ける職員ですからね?」

「ふざけてますよ。結婚生活の経験もない三十そこそこの若者に、子持ちで再婚した夫婦の事情や、思春期の子供の複雑な心理が分かる訳がない」

「それにしても、そんな若者がどうして児童相談所にいるのですか?」

「人間関係で失敗して転職したのか、思うような成績が出せなくて居られなくなったのか…いずれにしても生命保険会社を辞めて現在の仕事に就くまでに、二つ三つ、アルバイトでつないだみたいです。なにしろ今の若者は簡単に仕事を移りますからね」

「いえ、そうじゃなくて、どうして無資格で児童問題の専門機関に採用されるのかと聞いているんですよ」

「足りないって言っていましたよ、職員が…。ひょっとすると正規の職員がうつ病か何かで長期休暇を取っていて、その補充として雇われたのかも知れませんよ」

「確かに児童相談所は心を病み易い職場だと聞いたことがあります。なにしろ子供を虐待するような事情のある親と渡り合うのですからね」

「うまく解決したところで誰からも褒められませんが、子供が自殺したりすると攻撃の的ですから、ストレスが多い職場であることは想像できます。そういう意味でも、無資格の非正規職員に任せるような仕事じゃありませんよ。それにしても昨今は雇用も転職も安易だと思いませんか?」

「自分の能力を活かせる職場に巡り会うまでは、何度でも転職すべきだと煽る会社が、有名タレントを起用して派手に宣伝していますからねえ」

「ああ、その種の広告、電車やバスでよく見かけます」

「あんな広告を毎日見ていたら、転職こそ自分探しをする真面目な生き方のように思えて来るでしょう」

「しかしあなた、能力を活かすったって、人間、初めから能力なんてありませんよ。能力は何年も同じ職場にいて、失敗したり叱られたりしながら身に着けるものです。そうでしょう?」

「しかし最近はちょっと厳しく叱ったりするとパワハラですからね。部下を育てようと思ったって、うっかり叱ることもできません」

 心当たりでもあるのだろうか、中間管理職のような年齢の男が苦々しそうにそう言って空になったビール瓶を掲げ、

「あ、大将、厚揚げ、焼いてもらおうか」

 と言った。すると、こっちはウィンナーだ、おれにはレンコンを焼いて、私はおでんを適当に三つほどもらおうかと注文が飛び、カウンターの中はにわかに忙しくなった。

「確かに叱れなくなりましたね。しかも叱った部下が、うつ病という診断を受けたりするともうお手上げです。辞めさせられない上に、叱った先輩や上司はマイナスの評価を受ける」

 向かい側の客がすぐに呼応したところを見ると、彼にも苦い経験があるらしい。

「医師だって気の毒ですよ。こんなのは病気じゃありませんよ。誰だって気分が沈めば眠れないときもあります。あまり考えすぎないでもっと前向きに生きなさいなんて励ましたつもりでいると、診療拒否だ、弱者に理解がないなどとネットで炎上しかねません。仕方なく、うつ病の疑い程度の診断をして、軽い安定剤や眠剤ぐらい処方します」

「精神の病気はレントゲンには映りませんし、血液検査でも分かりませんから、症状を訴えられれば診断するしかありません」

「そうやって長期に休んでいる社員がうちにもいます」

「お宅にもいますか…うちだけじゃないのですね?」

「昔は精神的な病気だと診断されることに大変な抵抗がありましたが、最近は平気みたいですね」

「覚えていませんか?行政がテレビで盛んに広報して、うつは心の風邪ですなんて精神科受診を促した時期があったのを」

「ありましたね、心の風邪!あれは自殺予防のキャンペーンだったのでしょう?」