山車人形名称 | 「 |
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所蔵 | 青梅市本町 | |
山車人形制作年 | 明治2年 | |
山車人形作者 | 三代目 原舟月 | |
由来及び説明文 | ||
朝日日本歴史人物事典の解説より 『古事記』『日本書紀』に登場する伝承上の人物。建内宿禰とも書かれ,また武内,建内はタケウチノ,タケノウチノとも読まれる。『古事記』では第8代孝元天皇の皇子比古布都押之信命と山下影比売の子で,成務天皇をはじめとする4代の天皇に仕えたと伝え,『日本書紀』では屋主忍男武雄心命と紀直の遠祖【G7EDF道彦/とじひこ】の娘の影媛との間に生まれた子で,上記の4代のほかに景行天皇にも仕えたと伝える。大変な長寿であり,徹底した忠臣,神の代弁者として活躍したことが語られ,また葛城,蘇我,平群その他の諸氏の祖とされる。しかし,その伝承の史実性は極めて薄いので,理想的な大臣として描かれた説話上の人物だと考えられている。あるいは,各天皇に仕えた何人かの忠臣に対するイメージが統合され,それがひとりの人物として説話の中で具現化されたものか。 | ||
生年月日: 西暦169年 死没: 西暦269年 |
朝日日本歴史人物事典の解説より 記紀にみえる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊。『古事記』には息長帯比売命と記される。神と交感する能力を持つ巫女的な女性。夫の仲哀天皇が神の託宣を信じず祟りにあって頓死したあとを受け,託宣に従って新羅を攻める。このとき大小の魚が寄り集まって,船の進行を助けたという。新羅の王は皇后の軍団の勢いに圧倒されて戦わずして降る。高句麗,百済もこれに倣う。この軍旅に際し,皇后は臨月を迎えていたが,石をもって産気の鎮めとし,筑紫へ凱旋してから御子(のちの応神天皇)を生む。このときの鎮めの石は,鎮懐石の名で筑紫の地に実在を伝えられており,8世紀初頭の歌人山上憶良の歌に,具体的な寸法と共に人々が盛んに参っていた様子が描かれている。皇后は出産ののち,反逆の企てなども粉砕し,大和で御子を皇太子に立てて後見に当たる。記紀の記載上,皇后は皇位に就かなかったことになっているが,天皇に匹敵する存在であり,『日本書紀』でも天皇に準じた扱いをしている。この皇后と御子の組み合わせは,やがて母子神信仰に習合し,八幡宮の祭神として名を連ねて現在に至っている。<参考文献>直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』 より | |
生年月日: 西暦200年1月5日 生まれ: 福岡県 宇美町 死没: 西暦310年3月31日 |
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より 記・紀系譜による第15代天皇。在位は5世紀初頭ごろ。 父は仲哀(ちゅうあい)天皇。母は神功(じんぐう)皇后。父の死後,九州で生まれ,胎中天皇ともよばれる。「日本書紀」によれば,母の摂政下で皇太子となり,母の死後即位。諸国をひろく治め,百済(くだら)(朝鮮)から阿直岐(あちき),王仁(わに)らが経典や典籍をもたらしたという。「宋書」倭国伝の倭王讃(さん)とする説もある。応神天皇41年2月15日死去。110歳。墓所は恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)(大阪府羽曳野市。仁徳天皇陵につぐ巨大前方後円墳)。別名は誉田天皇(ほむたのすめらみこと),誉田別尊(ほむたわけのみこと),大鞆和気命(おおともわけのみこと)。 | |