山車人形名称 | 「 |
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所蔵 | 青梅市仲町 | |
山車人形制作年 | 文久元年(1861) | |
山車人形作者 | ||
由来及び説明文 |
明治初期の頃、青梅宿を構成していた森下町、上町、仲町、本町、住江町の五町内は相前後して山車を購入し、鎮守住吉神社の祭礼は華やかなものとなった。 当町でも明治五年には「静御前」を載いた三層構造の山車を購入したものと思われ、人形の御頭を収めた箱に「明治五年壬申歳 仲両街」と墨書きされていたことにより推測できる。 仲町の山車人形についての資料は皆無であり作者名はもとより謎に満ちた存在であったが、平成十五年「江戸天下祭」参加を機に天下祭研究者の方々のご協力により謎は一挙に解明された。 仲町山車人形「静御前」は文久元年(1861)江戸の人形師松雲斉徳山により作製され、伊勢町、小田原町、瀬戸物町(現日本橋室町)が所有する山車の人形であった。 その故あろうか、手にした中啓(扇)に描かれた姫小松が、日本橋の欄干を飾っている。 |
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明治の仲町の 所蔵・油屋商店 | ||
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写真・上 明治中頃の、青梅宿、祭礼の写真 山車の上段に載せてある人形が静御前です。 --------- 写真・下 江戸重層型山車人形について 天下祭、江戸時代の錦絵に描かれている(左下の絵)嘉永元年(1848)山王祭の山車の番付九番目の山車人形が | ||
山車人形静御前愛用の扇子 ------ 扇に描かれている松の絵が(三本の松) この扇の絵を元に江戸日本橋の橋の | ||
生年月日: 生没年不詳 |
朝日日本歴史人物事典の解説より 鎌倉初期の白拍子。源義経の愛妾。文治1(1185)年11月,義経が兄頼朝と不和になり京都から没落した際,逃避行に同行。雪の吉野山中で別離を遂げたのち吉野山衆徒に捕縛され,翌2年3月,母の磯禅師と共に鎌倉に下向,鎌倉幕府から義経の行方についての尋問を受けた。同年4月8日,鶴岡八幡宮において,頼朝の面前であるにもかかわらず,反逆者義経を恋い慕う歌を毅然と歌った。閏7月29日,義経の男子を出産するが頼朝の命令で殺され,京都に帰る。なお,室町時代の『義経記』は,静に関する説話を増幅した物語として展開しているが,その背景として,静物語を語る巫女など旅をする女性の存在が想定されている。<参考文献>角川源義『語り物文芸の発生』,細川涼一『逸脱の日本中世』 世界大百科事典 第2版の解説より 平安後期-鎌倉時代,源義経の愛妾(あいしょう)。 母は磯禅師(いそのぜんじ)。もと京都の白拍子(しらびょうし)。文治(ぶんじ)元年(1185)源頼朝と対立した義経の都落ちにしたがったが捕らえられ,鎌倉におくられる。頼朝夫妻の求めで歌舞を演じた折,義経を追慕する歌をうたう。義経の子を生んだが殺され,自身はのち放免。その後の消息は不明。後世,能「吉野静」,浄瑠璃(じょうるり)「義経千本桜」などの主題となった。 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より 平安末期の白拍子。生没年不詳。父は不明。母は磯禅師。源義経の愛妾。1185年(文治1)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき,静もこれに同行。しかし翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ,鎌倉に送られて尋問をうけた。同年7月鎌倉で義経の子を出産するが,男児であったため子は由比ヶ浜に沈められ,静は京に帰された。その後の消息は不明。頼朝・政子夫妻の求めにより鎌倉鶴岡八幡宮社前で舞を舞ったとき,義経への恋慕の想いを歌ったことは《吾妻鏡》にみえて有名。 | |