山車人形名称 | 「 |
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所蔵 | 青梅市住江町 | |
山車人形制作年 | 明治七年 | |
山車人形作者 | 江戸の名人形師の仲秀英 | |
由来及び説明文 | ||
生年月日: 西暦169年 死没: 西暦269年 |
朝日日本歴史人物事典の解説より 記紀にみえる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊。『古事記』には息長帯比売命と記される。神と交感する能力を持つ巫女的な女性。夫の仲哀天皇が神の託宣を信じず祟りにあって頓死したあとを受け,託宣に従って新羅を攻める。このとき大小の魚が寄り集まって,船の進行を助けたという。新羅の王は皇后の軍団の勢いに圧倒されて戦わずして降る。高句麗,百済もこれに倣う。この軍旅に際し,皇后は臨月を迎えていたが,石をもって産気の鎮めとし,筑紫へ凱旋してから御子(のちの応神天皇)を生む。このときの鎮めの石は,鎮懐石の名で筑紫の地に実在を伝えられており,8世紀初頭の歌人山上憶良の歌に,具体的な寸法と共に人々が盛んに参っていた様子が描かれている。皇后は出産ののち,反逆の企てなども粉砕し,大和で御子を皇太子に立てて後見に当たる。記紀の記載上,皇后は皇位に就かなかったことになっているが,天皇に匹敵する存在であり,『日本書紀』でも天皇に準じた扱いをしている。この皇后と御子の組み合わせは,やがて母子神信仰に習合し,八幡宮の祭神として名を連ねて現在に至っている。<参考文献>直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』 より | |