Ome navi
Aoume
  • 更新日 2013年 5月29日
  • 上町かみちょう山車人形 だしにんぎょう
    山車人形名称 日本武尊やまとたけるのみこと
    所蔵 青梅市上町
    山車人形制作年 江戸末期~明治初期(推定)
    山車人形作者 不明
    由来及び説明文

    寛永3年(1750年)に祭礼の記録がある青梅は、青梅街道の中心となる宿駅であった。 鎮守住吉大明神の氏子としての祭礼五町の一つが上町で、この人形は、明治五年以前に福井町(現・台東区浅草橋)より完成期の江戸型三層鉾山車と共に購入した。(作者不明)

    生人形の影響による江戸末期の制作で顔面・筋骨の木彫の肉どり、胡粉仕上げ色彩・毛描き等は他に類例のない迫真性がある。

    日本武尊の東国遠征の勇姿で、額に額金、朱塗金銀巴紋平蒔絵の剣を背に、矢と黒漆半弓を持つ。 上着は白地波立涌文銀欄の狩衣、小袖と括袴は蜀江文錦で、幕末流行のオランダ風の甲比丹靴を履く。 胸の玉飾りには天下一藤原吉孝銘の鏡、勅命を受けたしるしの白いからうしの毛(節旄)をつける。

    剣の木身の茎に「小峰金三郎綱好」の漆書がある。 下小袖と同じ織物の雲竜文赤地錦の御旗を立てる。 剣と同じ巴紋は、二層の水引幕に金糸で刺繍、勾欄の金具にも刻まれている。

    上町の山車人形
    上町の山車人形
    上町の山車人形 上町の山車人形
    上町の山車人形
    上町の山車人形
    上町の山車人形
    上町の山車人形
    上町の山車人形
    上町の山車人形
    日本武尊やまとたけるのみことについて

    生年月日:
    朝日日本歴史人物事典の解説より
    『古事記』『日本書紀』の伝説で活躍する,景行天皇の皇子で,わが国の古代伝説の代表的英雄。『古事記』では倭建命(ヤマトタケルノミコト)。名は小碓命。別名,日本童男,倭男具那王。『常陸国風土記』では倭建天皇とも記す。『古事記』によれば,父の天皇から,食事に出てこなくなった,双子の兄の 大碓命 を諭せと命じられ,殺して筵に包み投げ捨ててしまう。乱暴を恐れた天皇に,熊曾建兄弟の討伐を命じられ,伊勢の斎宮で叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から衣裳を賜って九州へいき,女装して宴席に入り,兄弟を刺し殺し,そのとき弟から,ヤマトタケルの名を献上された。帰途に出雲(島根県)に寄り,出雲建(イズモタケル)を,友誼を結び油断させておいて,騙し討ちにして殺す。帰って報告するとすぐにまた,東国の征伐を命じられ,伊勢にいき,ヤマトヒメから 草薙剣 と袋を授かり,危急のとき袋の口を開いてみよと教えられる。尾張(愛知県)で美夜受比売(ミヤズヒメ)と婚約したのち,相模(神奈川県)で国造に欺かれ,野火に囲まれるが,草薙剣で周囲の草を刈り,袋の中にあった火打ち石で,逆に火を燃やして難を逃れる。房総半島(千葉県)に向け海を渡ろうとして,渡の神に妨害され,船が進まなくなり,后の弟橘比売が入水して,荒波を鎮めた。東征を果たして帰途に足柄の坂で「吾妻はや」といって后の犠牲を嘆き,それが東国を「吾妻」と呼ぶ起源になった。甲斐(山梨県),信濃(長野県)を経て尾張に帰り,ミヤズヒメと,月経の血で衣の裾が汚れていたのにかまわず,契りを結んだのち,草薙剣を彼女のもとに置き,伊吹山(滋賀,岐阜両県の県境)の神を素手で退治しにいったが,その神の毒気にあてられて重病になり,重い足を杖で支え,苦しみながら旅をして,三重の能煩野まで辿り着いたところで力尽き息絶えた。大和(奈良県)から后たちと子たちがやってきて,御陵を造り,泣きながら葬ろうとしたが,尊は八尋白智鳥に化して飛び翔り,后たちと子たちが懸命に追っていくと,河内の志幾(大阪府南河内郡)に留まった。そこでその地に白鳥陵を作り,鎮座させようとしたが,再び天翔り去ったという。 大略このような伝説は,全体が明らかに,典型的な英雄神話のパターンに則って構成されており,ギリシャ神話のヘラクレスとの類似は,ことに著しい。両者は共に,劣弱な双子の兄弟を持っているうえに,肉親(兄と実子)の殺害と,友誼を結んだ相手(イズモタケルとイピトス)に対する騙し討ちと,愛人(ミヤズヒメとイオレ)の色香への異常な耽溺が,それぞれの履歴の重要な結節点になっている。どちらも最後には毒に当たり非常に苦しんで死に,葬儀を受けたが昇天した。またヤマトヒメとアテナが両伝説で果たしている援助者の女神(神女)の役割にも,明らかに共通したところがあると思われるからだ。名古屋市の熱田区熱田神宮の相殿神であるほか,静岡県清水市の草薙神社や,焼津市の焼津神社などに祭られている。<参考文献>吉田敦彦『ヤマトタケルと大国主』
    base base base