専門職の条件

平成27年06月26日(金)

 すべては看護師の一言から始まりました。「敏子さん、上靴のサイズが合わないみたいで、足首から下が少しむくんでいるようです。今日、町へ出られたら、お店で介護用シューズを買って来ていただけませんか」

 面会に行くなり寝耳に水の話を聞かされて、驚いて上靴を脱がせようとしましたが、母の足は少しどころか、靴下の足首の部分と足の甲を渡る平ゴムの部分の二か所で大きくくびれ、まるで太ったサツマイモのように赤く腫れ上がって、思うように靴が脱げません。

「これはひどい。二月に入居して以来、三か月以上、同じバレーシューズを履いているというのに、どうして今頃になってこんなになったのでしょう?」

「グループホームの生活はどうしても運動不足になりますから、体調によっては足にむくみが出ることもあるのだと思いますよ」

「しかし、先週足の爪を切ってやったときにはむくんではいませんでしたよ。わずか一週間でこんなになるもんですかねえ…」

 と言いながら、私は突然不安になって、

「ひょっとしたら薬の副作用ということは考えられませんか?」

「…」

「本人はどんな薬を飲んでいるのですか?」

 質問を重ねる私の語気に、逃れられないものを感じたのでしょう。看護師は気が進まない様子で、投与されている薬の一覧表を渡してくれました。

 ミオナール錠、セレコックス錠、レパミピド錠、メマリーOD錠。

 悲しいことに、門外漢の私には副作用のことは分かりませんが、グループホーム入居時に母が背中の痛みを訴えたために、筋肉の強張りを和らげるミオナールと、痛み止めのセレコックスと、胃の粘膜を保護するためのレパミピドが出ていることは承知していました。しかしメマリーOD錠という耳慣れない薬はいったい何でしょう。投与するに当たって承諾を求められた記憶はありません。そしてメマリーだけが最近めっきり増量されているのです。

「この、メマリーという薬は何ですか?」

 と尋ねようとすると、

「なあに、むくんだのは靴下のゴムがきついせいや思う。ゴムを切れば腫れは引くで、新しい靴なんか買わんでもええぞ」

 早く外出したい母が話を遮りました。

「ねえ、とりあえず、靴を買って、どこかでお昼を食べようよ」

 妻に促されて、私たち三人は町へ出かけて行きました。


 ところが私たちは、しばらく歩いたところで、さらに驚きを新たにしなければなりませんでした。日舞の名取りだけあって、姿勢の良さについては自他ともに認めていた母の足の運びは、前傾姿勢のつま先歩きで、典型的なパーキンソン歩行ではありませんか。靴屋で介護用シューズのサイズを試すときも、立ったままでは片足を浮かすことができません。片手で近くの展示棚につかまって身体を支えるのですが、それでも危なっかしい母のために、店員が慌てて椅子を持ちに走りました。そう言えば入居一ヶ月ほどして、一泊で近場の温泉に連れて行ったときも、足が弱ったな…という印象はありました。先週の日曜に一緒に城山に登ったときも、石段の上り下りは体を支えなくては危険でした。しかしこれほど前傾姿勢で歩幅の小さな母を見たのは初めてです。常に歩行速度は人より速く、喘息の私を立ち止まっては待っていてくれた母の健脚はどこへ行ってしまったのでしょう。

 お昼はよく行く店でミニうどん付きの海鮮定食を注文しましたが、いつもならぺろりと平らげる母は、半分ほど食べたところで箸を置き、

「こうも食べれんで、手伝っとくれ」

 どうやら食欲も落ちているようです。

 むくみと不安定歩行と食欲低下…。

 それら全てが薬の副作用ではないかと疑い始めると、霧が晴れるように謎が解けて行きます。夫と離別して、女一人で生きて来た母特有の硬質な剣呑さが影を潜め、面会の度に従順さを増しています。母が変わって行く…。それは日常の不安から開放されて、グループホームという環境に馴染んだ結果なのだと思い込もうとしていましたが、心のどこかに何とも言えない違和感を覚えていました。もしかすると母の人格の変容も薬の影響だったのかも知れません。しかし、それもこれも今のところ素人の憶測に過ぎません。現に看護師は、むくみは上靴のサイズのせいだと説明しているのです。服薬の中止を申し出るにしても、まずはメマリーの効能と副作用について調べなければなりません。