多死社会考

平成29年02月27日(月)

 最近マスメディアで、多死社会という言葉を耳にするようになりました。多子社会ならどんなにいいかと思うのですが、残念ながら少子化の方は一向に歯止めがかからないまま、私たちはいよいよ、大量の高齢者の死について考える時代を迎えたのです。どの民族にとっても死は悲しく忌まわしいものなのでしょうが、とりわけ日本民族には、死を穢れととらえて遠ざける傾向がありました。病院には4号室がありません。4が死に通じるという理由で排除されているのです。和室に布団を敷くときは、北枕はだめだぞと注意されたものです。釈尊が頭を北にして入寂したことから、北が死を連想させるのです。箸から箸へと食べ物を渡す行為も避けなくてはなりません。合わせ箸といって、拾った骨を次々と箸で渡して行く火葬場の行為に通じるのが忌まわしいのです。山盛りにしたご飯のてっぺんに箸を立てるのも、通夜で死者を弔う枕飯と同じであるため嫌います。飛騨高山の宴席には、長老が独特の節回しで「めでた」を唄い終わると無礼講になるという風習がありますが、「枝も栄える葉も繁る」というお馴染みの歌詞を、「葉もシュげる」と訛って発音します。訳を聞くと、

「そういやぁ確かに訛っとるけんど、爺様の昔からこうやって唄っとるでぃな、理由なんて考えたこともねぇさ」

 と長老は首を傾げますが、「繁る」のシの発音が死に通じるからだと思い至った時、死を忌み嫌う私たちの文化の根の深さを見たように思いました。結局、私たちは神道の徒なのですね。葬儀の帰りには身体に塩を振りかけて死の穢れを清めます。葬儀の時には神棚に白い紙を貼って、神聖な領域を死の穢れから隔てます。白い紙の代わりに、心に『縁起でもない』というお札を貼って、私たちは長い間、日常から死を遮断して暮らして来たのです。その私たちの意識に、今、大きな変化が起きています。死亡保険を始めとして、仏壇の宣伝、墓石の宣伝、葬儀社の宣伝、遺言講座、相続講座、あの世の話し、エンディングノート、リビングウィルの書き方などなど、枚挙にいとまがないほどの「死」にまつわる情報が日常に溢れ返っているのです。私たちはもはや死を忌み嫌う神道の徒でありながら、多死社会の一員として、真剣に死と向き合わざるを得ない時代に突入したのですね。


 最近わが国の死亡者数は年々増加して、平成27年の厚生労働省の統計によると、年間に130万人が死亡しています。私が生まれた昭和25年の死亡者数が90万人だったのと比較すると、紛れもなく多死社会であることが分かります。全体のざっと3分の2が高齢者だとすると、毎年87万人を超えるお年寄りが亡くなって、その数は年を追って増えて行くことになります。これは山梨県の人口を超える高齢者が毎年ごっそり消えてしまうと勘定になります。そのうちの8割の約70万人が病院で死亡します。病院で死亡した人の入院日数は平均20日で、1日当たりの医療費は8万円かかっていますから、1人の高齢者をこの世から送り出すために必要な医療費は160万円、その70万人分ですから、何と1兆1千億円を上回る金額が費やされている計算になります。これは平成29年度国家予算で言うと、経済産業省の年間予算を超えています。愛知県予算で見ると、平成28年度の県税の税収に相当します。治療によって健康を回復し、再び生産活動に従事して、GDPを増やし、税を納めるための入院ではありません。ひたすら高齢者が死ぬために費やされる費用が年間で1兆1千億円に上るのです。とても負担に耐えられないと考えた国は、終末期医療に関する調査等検討会を立ち上げて、国民の6割が自宅での看取りを希望しているという調査結果を発表し、2025年までに、自宅等での死亡割合を現在の2割から4割に引き上げるという目標を掲げました。いいですか?自宅での死亡ではありませんよ。自宅等での死亡と書いてあります。「等」が何を意味しているのかを念頭に置いて、次に進みましょう。

10