多死社会考

平成29年02月27日(月)

 そこで国家の要請を受けて、終末期の高齢者を在宅で支えるための、医療と福祉の連携をテーマにした研修会が各地で開催されるようになりました。ある市から講演を依頼された私は、主催者との事前の打ち合わせで、4人の担当職員にわがままを言いました。

「お引き受けする以上は、家で死ぬための条件について、会場も一緒に、本音で考えてみたいと思いますがよろしいでしょうか?」

「え?本音…と言いますと?」

「このテーマが誰のためのテーマかということですよ」

「それは依頼文書にもお示しした通り、病院ではなく、家族に見守られながら、自宅で最期を迎えたいと希望する国民が6割を超えましたので、地域としましてもそのための体制作りを…」

「いえ、家族に見守られてとは国は言っていませんよ。私、このテーマを頂いて考えてみたのです。私が80歳で死ぬとして、家族はどういう状況だろうってね」

「はあ…」

「すると、息子も娘もまだ50代で、東京でそれぞれに現役で仕事をしています。一緒に住んで私の晩年を見守ってくれるとは思えません。せいぜい危篤の連絡を受けて駆け付けた時には、私の顔は白い布を被っているでしょう。結局、傍にいるのは妻だけということになりますが、その頃は妻も後期高齢者で、とても死にゆく私を自宅で世話する体力はないと思います」

 皆さんはどうですか?と主催者を見回すと、4人は顔を見合わせて、しばらく考えていましたが、

「確かにそうですね…」

 少し困った顔をしました。

「人生の最期を、白い壁に囲まれた病室で迎えたいか、それとも住み慣れた我が家で迎えたいかと聞けば、自宅がいいと答える人が多いでしょうが、在宅死を望む国民の声に応えるために国が検討を始めたのか、終末期医療の財政負担軽減のために、そんな調査結果を発表して、国民を在宅死に誘導しているのか、いったいどちらでしょうかねえ」

「そう言われれば、後者だと思います」

「本音とはそのことなのです。それをごまかして、自宅で幸せに最期を迎えましょうなどというお話しはできません。財政的理由だとしたら、自宅で死ぬか、病院で死ぬかは選択の問題ではないですからね」

「え?」

「こうして地方で在宅死のシステムが模索される一方で、国では、死ぬための入院を認めない医療保険のルールが検討されているかも知れませんよ。例えば医療保険は患者を治すためのものだという大義名分を掲げて、看取りのための入院は全額自費にするとか…」

「…」

「ここで、自宅等での死亡割合を倍にするという厚生労働省の文章の中の『等』という文字が気になるのです。等ってどこを指しているのでしょう?」

「特別養護老人ホームとかグループホームとか?」

「サ高住、高齢者専用のアパートとか…」

「看取りを行うためだけの特別なアパートが登場するかも知れませんよ。経営者は葬儀屋さんだったりして…」

「なるほど」

「さて、自宅等で死ぬとなると、解決しなければならない問題は苦痛です。皆さん、ご自分は苦痛なく死ねるという自信がありますか?」

「さあ、それは…」

「楽に死ねる人はいいんですよ。問題はひどく苦しみ始めた時です。救急車を呼んだら行先は病院ですからね。自分が死ぬ側だとしたら、断末魔の苦しみに耐えられるか、自分が看取る側だとしたら、苦しむ配偶者を救急車を呼ばないで見守れるか、最終的にはそこに突き当たります。死期を早めても苦痛を取るための処置が許されるか、それが法的に訪問看護師で可能なのか、医師でなければできないとしたら、クリニックで診療時間中の医師が対応できるのか、講演会では、その辺りの問題を会場と一緒に真正面から考えてみたいと思うのですが…」

 いかがでしょう?と問いかけると、4人は真剣な表情になって、

「今回で3回目の研修会ですが、確かに自分の問題として本気で考えてはいなかったような気がします。いいんじゃないですか?本音で話して頂いて…」

「そうですね、私も賛成です」

「私も異存ありません」

 こうして私は『高齢者の在宅死を考える』という初めてのテーマで本音の講演をお引き受けすることになったのでした。

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