多死社会考

平成29年02月27日(月)

 ここまで述べて来て、自宅等で看取りを行うことについて、次のようなことが明らかになりました。

  1.  自宅等で看取る高齢者の数を、2025年までに倍化しようという厚生労働省の目標は、それを望む国民の声の実現を図ろうというものではなく、団塊の世代がこの世を去る多死社会を何とか財政的にやり過ごすため、膨大な費用のかかる病院での死亡を減らすのが目的であろう。
  2.  だとしたら、死ぬための入院は医療保険から外す等、病院で死ぬことに対する何らかの制限が設けられて、病院で死ぬか、家で死ぬかは、もはや選択の問題ではなく、安心して家で死ねるシステムの構築はここ十年以内の急務なのである。
  3.  住み慣れた我が家で、家族に見守られながら最期を迎えるというのは幻想で、子供たちは、それぞれに家庭を持って現役で働いていて親の晩年には寄り添えず、結局は体力に不安のある年齢の配偶者が見守ることになって、一方を看取り終わると単身になる可能性が高い。
  4.  単身になった高齢者はもとより、様々な家庭の事情で自宅での看取りが果たせない場合を想定して、厚生労働省の文章は「自宅等」と言う表現になっており、「等」には「看取りアパート」のような形態も想定される。
  5.  人間は安楽に死に至るとは限らない。費用のかかる病院での死亡を回避するためには、終末期の苦痛に際して救急車を呼ばない覚悟が求められる。専門職の支援が必要であれば、信頼している医師、看護師、ヘルパー等の専門職と臨機に連絡が取れ、対応が得られる体制がなければならない。
  6.  死を忌まわしいものとして忌避する文化に加え、医療介護制度の充実により、死は日常から遮断された場所で専門職の手によって看取られるようになった。人は、他人の「死」を見る機会もないまま終末期を迎え、突然、自分自身あるいは親しい者の死に直面してうろたえている。出産が生理現象であるという理由で医療保険の対象にならない様に、死も生きものが必ず迎える生理現象である。そのための教育が不足している。

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