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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第百十九回》ふるさとの文化財

    報恩寺ほうおんじ青石塔婆あおいしとうば
    【青梅市指定有形文化財】
    掲載日 平成23年2月15日

    青石塔婆あおいしとうばは、石製の卒塔婆そとうばで、一般に「板碑いたぴ」と呼ばれています。この板碑が出現するのは、鎌倉時代の始めごろから室町時代の末までに限られています。

    今寺の報恩寺ほうおんじは、市内唯一の天台宗寺院ですが、ここには嘉元三(1305)年から永正二(1502)年の間の、破損したものを含めれば七十九基の板碑が残っています。このうち二基の青石塔婆が市の有形文化財に指定され、境内東側墓地入口の歴代住職墓所に並んで設置されています。右側のものは高さ142cm、左側は149cmで、市内では大型の青石塔婆です。南北朝期に造立されたもので、北朝の年号が刻まれています。

    右側は、貞和三(1347)年、師範であった承祐和尚のために、彼の弟子で権少僧都ごんのしょうそうずの僧官位にある隆承が建碑したものです。『皇国地誌』に、この寺にはもと古鐘があり、宝暦三(1753)年の什物帳じゅうもつちょうに「『鋳師いもし 草賀重光作大檀那平清綱くさがしげみつさくだいだんなたいらのきよつな 施主當住承祐代せしゅとうじゅうしょうゆうだい』と記録してあったという」と記されています。ここに登場する承祐が実在したことは、この青石塔婆が証拠であるとされています。なお、「平清綱」とは三田弾正忠平清綱であろうと推定されています。

    左側は、それから十年後の延文二(1357)年、師範法印の隆承のために、諸弟子により建立されたものです。ちなみに、法印とは法印大和尚位ほういんだいかしょういのことで、隆承は権少僧都から昇進して僧正位になったのでしょう。

    これらから当時の報恩寺が、勝沼に居城し青梅の杣保そまほを支配していた三田氏と深いつながりを持っていたことや、経済的にも富裕であったこと、板碑造立の経緯、師弟の間で法や学問が受け継がれていった様子がうかがえます。

    報恩寺は、東青梅駅か河辺駅から西武バス「入間市駅行」で、青梅三小または今寺榎バス停下車、徒歩約5分です。

    市文化財保護指導員
    久保田 繁男
     参考資料
    『青梅文化財・史跡・天然記念物』より
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