ハアー 機の織りよさ 筬まで軽い これで織れなきゃ手が不器用
ハアー 鯉の長淵 幟は友田 河辺と千ヶ瀬は吹き流し
ハアー 傘で名高い青梅の町は 今じゃ夜具地で日本一
こんな機織り唄にもあるように青梅町を中心とした周辺の村々の多くは、古くから機織りが盛んでした。 明治・大正のころまでは「機織り、養蚕、糸引き(繭から糸をとる)」が女性には大事な仕事とされていました。とりわけ、機織りは一番大事な仕事であって、7・8歳ごろから習わされ、学校から帰ると管巻きをさせられました。14歳ごろから本格的に機織りをするようになって嫁に行くときは家で織った着物を10枚くらい持って行ったそうです。
青梅市郷土博物館には地機
(昭和43年、市指定有形民俗文化財) が展示してあります。
江戸時代に作られたものと思われますが、今でも完全に使
用できるものであり、西多摩地区内でも数少ない貴重なものです。 地機は下機ともいい、織り手が床に近い高さに座って織る原始的な手織り機です。 明治期には腰板に腰かけて足で踏木を踏んで《あぜ(綜絖)》を上下させて織る高機
(バッタン)が出現し、大正期になるとほとんどが高機に変わり、さらに昭和期の初めには機械織りになっていきました。
青梅は、江戸期には青梅縞(経糸が絹で緯糸が木綿の着尺地)の産地として知られていましたが、明治の後期になると夜具地(布団皮)や座布団地も織るられるようになっていきました。
地機を使い、昭和年代まで織物をしていた人の話によると、一反(幅約27㎝、長さ約8.4メートル)を織るのに4・5日かかり、天気のよい日には縁側で一日中織り続けたそうです。
江戸、明治、大正のころの青梅地方では、チャンカラン、チャンカランという手織りの機音と織り子たちの機織り唄
が、あっちからもこっちからも聞こえていたことでしょう。
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