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  • 更新日 2017年7月19日
  • 青梅市「広報」より
    《第六回》青梅市の文化遺産

    青梅の名産品めいさんひん 青梅傘おうめがさ
    掲載日 平成29年6月15日

    江戸時代、武士の中には、内職で和傘作りをしてなりわいをたてる人もいました。江戸の和傘はどこで作られていたのでしょうか。

    江戸時代に和傘の生産地となったのは、現在の青山・原宿周辺で、浅草周辺に卸されていました。明治、大正ごろまで傘の生産地でしたが、震災により、小岩(現在の江戸川区)に移ったと言われています。

    今回紹介する青梅傘は、江戸時代の終りごろ、武家出身の人が青山で傘の修行をし、その後、青梅に移り住んだ際に作り方を伝えたものであると言われています。

    青梅傘は和紙と竹で作られた芸術品としてブランド化され、生産・販売されてきました。どういう形で青梅傘と呼ばれるようになり、ブランド化されたのかよく分かっていませんが、この和傘は青梅縞と並んで町の大きな産業の一つでした。

    青梅森下に住んでいた山田早苗の著である「玉川泝源日記たまがわそげんにっき」(天保13年・1842年)には青梅の産物として、和傘が売られていたことが書かれています。

    当時は、御嶽詣でのお土産としても作られていました。

    しかし、昭和30年代に入ると洋傘(コウモリ傘)が出て来て、和傘の需要は減っていきました。昭和30年代後半になると大 勢いた職人さんも減っていき、最後は一人の傘職人さんだけとなってしまいました。

    最後の傘職人さんの作った青梅傘が、毎年2月に行われる青梅マラソンの優勝賞品として出されていたこともありましたが、その後、傘職人さんが亡くなり、青梅傘の歴史は幕を閉じたのでした。

    一部の青梅傘の資料が、郷土博物館に展示されています。足を運んでご覧になってみてはいかがでしょうか。

    問い合わせ郷土博物館

    ☎23・6859

    市文化財保護指導員
    東山 啓子
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