Ome navi
Aoume
  • 更新日 2011年12月 8日
  • 三田氏の里の史跡
    軍畑駅鎧塚旧鎌倉街道奥澤橋旧青梅街道西木戸跡(桜橋原遺跡)→ 旧青梅線二俣尾引込線跡長泉院海禅寺(三田氏墓・三田綱秀首塚・クスノキ・桃ノ里歌碑)→ 石神社(大イチョウ)→ 横吹のイヌグス旧神代万年橋跡 → 日向和田駅
    軍畑駅いくさばたえき
    軍畑駅
    軍畑駅

    軍畑駅は多摩川が作った河岸段丘のうち最も高い段丘面上にあり、二俣尾駅をすぎ、平溝鉄橋を渡ると急に奥多摩の山峡に入ります。 電車内の行楽客が歓声をあげるのもこの場所です。
    駅前に立ち、南を展望すると景観がすばらしく、東には雷電山や三田氏の山城のあった辛垣城がそびえています。
    軍畑駅は、御岳駅や沢井駅とともに昭和4(1929)年9月ね開催されました。 高水三山の登山口として、また、成木方面にもいけるとこらから、多くの人々に利用されています。
    軍畑の地名は、永禄年間(1560年代)この付近一帯で、多摩川上流を支配していた三田氏と、八王子付近を支配していた北条氏が戦ったことに由来すると言われています。

    鎧塚よろいづか
    鎧塚
    鎧塚

    JR青梅線の鉄橋の下にある鎧塚は、永禄年間(1560年代)の辛垣合戦の折り、戦死者を埋葬した塚だといわれています。 高さ約8.8メートルの塚の上には「鎧塚大明神」の小祠があり、享保16(1731)年に再建されています。 『武蔵名勝図会』には「土人此(この)塚を穿(うがち)て矢の根又は鎧の錣(しころ)、或は槍の穂其外種々の兵具を掘り出せしことありといふ。 合戦の後に討死せし者の兵具を埋めたる塚なり」と書かれています。
    直径約30メートルのこの塚は、市の史跡に指定されています。

    旧鎌倉街道きゅうかまくらかいどう

    榎峠から鎧塚の横を通り、多摩川を渡って柚木に向かう道は、旧鎌倉街道の一部です。 旧鎌倉街道は、鎌倉時代に整備された、鎌倉と秩父や北関東の各地を結ぶ重要な街道で、今でいえば一級国道に相当するものでした。 街道の所どころには道標や庚申塔が残されています。

    奥澤橋おくさわばし

    奥澤橋は旧鎌倉街道と旧青梅街道が交差するところで、平溝川に架かっています。 この橋から北に向かうと名栗村を経て秩父に至り、東に向かうと青梅を経て東京に至ります。 いわば追分に架かっている橋です。 橋の規模は幅約3.8メートル、長さ約12メートルで、明治36(1903)年に作られました。
    かつて橋の脇には

    「右はんのう ちゝぶ 子の古んけんミち」

    「左 ミたけ 日原 くら沢 ひ川 ゆバ た波山」
    と彫られた道しるべが建っていました。

    旧青梅街道きゅうおうめかいどう

    奥澤橋から東は二俣尾へ向かい、西は鎧塚の前を通って御岳・奥多摩へ至る道があります。 これは旧青梅街道の一部です。 幅5メートルのこの旧街道は、昭和6(1931)年頃までは奥多摩と東京を結ぶ重要な道でした。

    西木戸跡にしきどあと
    (桜橋原遺跡)さくらばしはらいせき

    西木戸跡は、現在は運動広場や宅地、畑地として利用されています。 この舌状の台地は、中世の頃に辛垣城の西木戸(城門)があったといわれています。
    考古学的には、この台地は桜橋原遺跡としても知られています。 地表面から50センチ前後掘ると、縄文時代早期から後期までの土器をはじめとした遺物が、多数出土しています。

    旧青梅線きゅうおうめせん
    二俣尾引込線跡ふたまたおひきこみせんあと

    二俣尾駅の北側にそびえている雷電山一体は、石灰岩が埋まっているところです。 石灰岩はセメントや肥料などの原料となるため、山腹や山頂の各所で掘り出されました、 それを運び出すため、大正9(1920)年1月、それまで日向和田駅までだった路線は、二俣尾駅まで延長されました。
    石灰は昭和6(1931)年頃まで掘られていましたが、埋蔵量が少なかったため、その後は成木地区で掘り出された石灰石が、リフトでこの引込線まで送られ、貨物列車で京浜工業地帯などへ運び出されました。

    長泉院ちょうせんいん

    二俣尾駅の北側にあるこの寺は、海禅寺の第3世・雪庵寿欽によって、永正年間(1504~1521)に建てられました。 金花山と号し釈迦如来を本尊とする曹洞宗のお寺です。 辛垣城あとの登り口にあたるため、寺の裏には「辛垣城跡」の解説板が建てられています。

    海禅寺かいぜんじ
    海禅寺
    海禅寺

    瑞龍山と号し、本尊は釈迦如来です。 室町時代の寛正年間(1460~1465)に群馬県白井・雙林寺(そうりんじ)の、第2世の一州正伊を開祖として開かれたといわれています。 その後、この地方を支配していた豪族の三田氏の厚い保護を受けていました。
    永禄年間(1560年代)、辛垣城落城の際の兵火で、諸堂はことごとく焼失しました。 天正18(1590)年、第7世の天江東岳により諸堂が再建されましたが、江戸時代にも再建と焼失をくり返してします。
    この寺の構造は、多摩地方山岳部の中世禅宗伽藍の典型として建築史上貴重であったため、境域は昭和60(1985)年に東京都史跡に指定されました。

    三田氏墓みたしはか 海禅寺三田氏墓

    東京都の旧跡に指定されている三田氏の墓は、本堂西側の山中にあります。
    宝篋印塔(ほうきょういんとう)および五輪塔からなる墓を、明治初期の『皇国地誌』では、それぞれ三田綱秀夫人・十五郎・喜蔵・五郎太郎の4人の墓としていますが、形式からみて、三田氏各個人の墓石ではなく、桃山時代または江戸時代初期に設置された供養塔のようです。

    三田綱秀首塚みたつなひでくびづか

    本堂西側の坂道を100メートルほど登った竹林の中にある五輪塔は、三田綱秀の墓(俗に首塚)とされ、永禄年間(1558~1570)に僧禅染が建てたといわれています。 しかし、形式からみると三田氏の墓と同じく、江戸時代初期のもののようです。

    ●クスノキ 海禅寺クスノキ

    三田氏の墓の南側斜面に2本、鐘楼東側に1本の合計3本あります。 幹回りは2.6~3.5メートルで、市内にあるクスノキのうちでは最大です。
    西日本の暖地には自生するクスノキもありますが、市内のものはどれも植裁したものと思われます。 当寺のクスノキは樹高が高く、枝ぶりが見事なため、昭和56(1981)年に市の天然記念物に指定されています。

    桃ノ里歌碑もものさとかひ
    桃ノ里歌碑
    桃ノ里歌碑

    碑は青梅街道に面した、海禅寺総門の前にあります。 高さ1.1メートル、幅0.8メートルの自然石で作られています。
    表面には室町時代の歌人、三条西実隆(逍遥院内府公)の「花を見て帰るといはむ人はなし、袂(たもと)に桃の錦たちきて」、表面には、青梅の文人・根岸典則の「立ちよりてあかねいろかや花の名の百度千度春に逢うとも」の歌をはじめ、浄月律師、青木惟吉の”桃花ノ和歌”が刻まれています。

    石神社いしがみしゃ
    (石神神社)いしがみじんじゃ
    石神神社
    石神神社

    石神社は、『石神前」駅から、徒歩で約2分ほどのところにあります。 祭神は磐長比女命(いわながひめのみこと)で、例祭は10月の第2日曜日です。 神社の由緒は明らかではありませんが、古い文献には「神体は丸き石なりと云う」とあります。 もとは石神神社といいましたが、明治維新の際に石神社(石神神社)と改めました。 二俣尾の氏神様として崇敬されています。
    社殿は寛政年間(1789~1801)の再建で、当時は今より北の方にありましたが、大正8(1919)年、青梅線延長の際に現在の位置に移されました。 拝殿前方の石灯籠は、文政8(1825)年の建立です。

    大イチョウおおいちょう 大イチョウ

    拝殿の東側に接して、今なお樹勢さかんなイチョウは、市内最大のイチョウです。 昭和32(1957)年に市の天然記念物に指定されています。
    幹の太さは、6.4メートルで高さ6メートルのあたりで2本に別れています。 このイチョウは母乳の神として信仰を集めています。

    横吹のイヌグスよこぶきのいぬぐす
    横吹のイヌグス
    横吹のイヌグス

    目通り3.85メートル、樹高約16メートルのこの大イヌグスは、横吹第2踏切の北(小字横吹)にあります。 暖地の海岸近くなどにはイヌグスの巨木が多く見られますが、内陸地でこれだけ大きいものは珍しく、市の天然記念物に指定されています。

    旧神代万年橋跡きゅうじんだいまんねんばしあと
    旧神代万年橋跡
    旧神代万年橋跡

    旧神代万年橋の跡は、へその緒観音堂の下にあります。 スギ林の中に続く細い坂道を下ると、かつての橋台の跡につきます。
    この旧神代万年橋がいつ架けられたかは明らかではありませんが、文政2(1819)年にはすでに架けられており、多摩川でいつでも牛馬が通れる唯一の橋でした。 御岳山参詣の人々も、かつては高さ約10メートルのこの橋を渡っていきました。

    base base base