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  • 更新日 2011年12月 8日
  • 南小曽木の谷を歩く
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    東青梅駅ひがしおうめえき

    天寧寺てんねいじ

    虎柏神社とらかしわじんじゃ

    祭神は大年御祖神(おおとしみおやのかみ)ほか4神。 延喜式内の旧社で、 昔は諏訪宮といいました。 文応元(1260)年に再建され、 永正年間(1504~1521)には勝沼城主三田氏の信仰が厚く、 社殿の改築が行われています。 社宝として多摩群小曽木郷惣社縁起板2枚があります。

    8月28日の例祭は「お諏訪さまのお祭り」として知られ、門前は多くの参詣者でにぎわいます。

    平成5(1993)年3月に、 本殿、 境域、 祭礼行事が都指定文化財となりました。

    医学文化館いがくぶんかかん

    医学文化館は聖明園の敷地内に建てられています。

    展示室には、『ターヘル・アナトミア』の原書をはじめとして、『解体新書』、シーボルトの肖像、シーボルト愛用の薬箱、小石元俊の解剖絵巻など、現代の日本医学の基礎となった、江戸時代末期から明治時代にかけての貴重な医学関係資料が展示されています。 また、健康管理に関する文献もとりそろえてあります。

    開館時間は10時から16時30分までで、月曜日は休館です。

    聞修院もんしゅういん

    聞修院は黒沢山と号し、本尊は阿弥陀如来で、天寧寺3世・霊隠宗源の開山です。 先哲の「聞思意修より三摩地に入る」という語から寺号を選んだといわれ、開基は黒沢村の住人黒沢蔵之助と伝えられています。

    慶安2(1649)年には、徳川氏から阿弥陀堂領10石の朱印状を寄せられています。

    天保11(1840)年には火災にあいましたが、嘉永3(1850)年、光雲大竜の代に再建されました。

    天文12(1543)年の板碑(市・有形文化財)があり、碑面には42名の名前が彫られています。 風化が激しいため、現在、本堂内に保管されています。

    高指たかざす

    高指と呼ばれていた地域は、現在黒沢2丁目の一部です。 明治22(1889)年まであった黒沢村の中心地でしたが、かつての地名を残しているのみです。

    黒沢村は明治22(1889)年に南小曽木村・富岡村と合併して小曽木村となりました。 その後小曽木村は昭和30(1955)年に青梅市に合併しました。

    黒沢駅跡くろさわえきあと

    峰の橋の南西側の石垣がある平坦地は黒沢駅の跡です。 浅野セメントは大正7(1918)年に、峰向および田ノ入(現在の黒沢1・2丁目)で採掘した石灰岩を東青梅まで運ぶために、黒沢専用線を敷設しました。 しかしながら、埋蔵量が予想より少なかったため、大正9(1920)年採掘を中止し、大正11(1922)年に廃止になりました。

    花木園かぼくえん

    花木園は黒沢川に架かる、古武士(こむし)橋の南にあります。 市民に農業への理解を深めてもらい、また自然に親しみながら健康の増進を図ってもらうために、昭和60(1985)年に開園されました。

    約4万平方メートルの敷地内には花木・果樹展示見本園・体験自習農園・木製遊具場・芝生広場・自然林・散策道などがあり、10区画の体験実習農園は団体に貸し出されています。 芝生広場などはいつでも使用することができ、草スキーなどでにぎわっています。

    東京炭鉱跡とうきょうたんこうあと

    黒沢川の小曽木4丁目運動広場の東側一帯は、昭和35(1960)年まで東京炭鉱があったところです。 昭和33(1958)年頃が最盛期で、40人前後の従業員が毎月500トンほどを産出していました。

    炭鉱では粘土層内に含まれている亜炭が掘り出されていました。 亜炭のほとんどはメタセコイアなどの植物化石で、暖房用燃料や肥料として使われていましたが、石油や化学肥料が普及すると、採掘されなくなりました。

    岩蔵御嶽神社いわくらみたけじんじゃ

    祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、相殿は広国押し武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)ほか2柱で、例祭は3月15日です。

    相殿は明治維新以前は御嶽蔵王権現といい、寛平年間(889~898)の勧請で奥津宮といいました。 社地のうしろの山上に鎮座していましたが、安永年間(1772~1781)に山火事で炎上したため、安永(1776)年に本社合祀となりました。明治元(1868)年に社号が現在のように改められました。

    神社に保存されている2体の懸仏は千手観音像と蔵王権現像で、鎌倉時代から室町時代に作られたと推定されています。 いずれも直径約17センチで、市の有形文化財に指定されています。

    岩蔵の大岩いわくらのおおいわ

    大岩は御嶽神社から6~7分進んだところにある、屏風のような高さ3~6メートルの岩です。

    柱状になっているところは、立岩・宮岩など7つの名前がつけられており、道路に面するところは小さな凹地となっています。 伝説によると、この凹地は日本武尊が武具を納めて身の安全を祈願したところといわれ、「岩蔵」の地名の語源とされています。

    岩蔵遺跡いわくらいせき

    岩蔵遺跡は黒沢川の南側にある上台(うえんでい)と呼ばれる、舌状をした台地の上にあります。 この遺跡は縄文時代中期(4000~3000年前)の住居跡からなる遺跡で、3基の住居跡には敷石があり、市の史跡に指定されています。

    台地の周辺には各所に湧水があり、台地の上は見晴らしも良いところから、縄文人たちは比較的恵まれた環境で生活を送っていたことでしょう。

    岩蔵鉱泉いわくらこうせん

    岩蔵鉱泉は、湯本(長淵)・鶴ノ湯(小河内)・蛇ノ湯(数馬)・鹿ノ湯(平井)と共に、多摩の七ツ湯のひとつとして知られています。 日本武尊伝説があるように、古くから「岩蔵みそぎの湯」として知られ、湯治場として利用されていました。 明治16(1883)年からは温泉旅館も営業を始めています。

    戦前から戦後にかけて鉱水を大八車で宅配し、売っていた時もありました。

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