二俣尾駅 → 奥多摩橋 → 忠堂院 → 木下八幡神社 (月待十三仏板碑)→ 旧鎌倉街道 → 愛宕神社 → 稗倉・膳椀倉 → 吉川英治記念館 → 即清寺(十三仏結衆板碑)→ 大聖院 → 下山八幡神社 → 都立天満公園・市立梅の公園 → 秋葉神社 → 杉平遺跡 → 和田橋 → 明白院 → 宮ノ平駅 | ||
奥多摩橋は二俣尾と柚木を結ぶ、高さ約40メートルの橋です。昭和14(1939)年に架けられたアーチ式の橋で、多摩川に架かる橋のうち、水面からの高さがいちばん高く、橋から真下をのぞくと、その高さに足がすくみます。 橋の上から上流を見ると、高水山をはじめとして、奥多摩の美しい山々を望むことができます。 | ||
忠堂院は文珠山と号する真言宗豊山派の寺院です。 寛文8(1668)年の検地帳には中道坊と書かれており、開基の年は不明ですが、即清寺の末寺です。 境内は静かで、庭にある五輪塔はいつ訪れても歴史の古さを感じされます。 | ||
木下八幡神社は、柚木町2丁目の木下氏の敷地内にあるところから、「木下」の名称が付けられており、八幡社とも呼ばれています。 祭神は誉田別天皇(ほんだわけすめらのみこと)で、詳しい年代等はわかりませんが、現在もこの神社を管理している木下氏の先祖が勧請したと伝えられています。 元は八幡宮と呼ばれ、木下氏の氏神様でしたが明治以降、現在の社名となり、神社も木下氏個人から地区の要望により、地区の神社となりました。 | ||
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月待十三仏板碑は、木下八幡神社裏の竹林の中の木造建築に、他の石仏と共に保管されています。 板碑の大きさは、縦約90センチ、幅約26.5センチで文明2(1470)年10月23日と記されています。 碑面の内容は、主尊を虚空蔵菩薩として、右下に6仏、左下に6仏の合計13仏が配置されています。 大勢の人が二十三夜の月を祀って、その記念に建てた結衆板碑です。 | |
吉野街道の信号を渡って、小道の突き当たる道が旧鎌倉街道(秩父鎌倉道)です。 かつては信州・上州・秩父と鎌倉とを結ぶ重要な道でした。 旧鎌倉街道の多くは3~5メートルの幅で、散策道としては恰好の道です。 | ||
神社の成立年代は不明ですが、 三田氏の辛垣城の鎮護とされた旧社です。 急な石段を登ったところに遥拝所の社殿があり、 本社は愛宕山の頂上にあります。 祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)です。 神社の境内には桜(主にソメイヨシノ) やツツジなどが多く、つつじヶ丘とも呼ばれ、花の名所になっています。 また、 境内からの眺めもすばらしいです。 | ||
稗倉は、稗を貯えておく倉庫です。 稗はやせた土地でも、天候不良の時でも実ります。 日本では古来から、災害による不作に対するため、あらかじめ貯えておく作物でした。 膳椀倉は、ワンコ倉・オワン倉などと、場所によって呼ばれ方が違いますが、冠婚葬祭に必要なものを地区の人たちが共同で購入し、保管しておいた建物です。 | ||
愛宕神社の境内に隣接して、吉川英治(1892~1962)の旧居草思堂と記念館があります。 すでに『鳴門秘帖』や『宮本武蔵』で有名だった文豪吉川英治は、昭和19(1944)年3月に疎開してきました。 その後、約10年間滞在し、その間に大作『新平家物語』を執筆しました。 記念館(月曜休館)には遺愛の品や著書の数々が展示されており、毎日多くの人々が訪れています。 吉川英治の愛したシイの巨木が、今も青々と葉をしげらせています。 | ||
愛宕山明王院と号し、元慶年間(877~885)に元喩和尚が開創したとされています。 その後、 建久年間(1190~1199)に源頼朝が畠山重忠に命じて造営しています。 大永年間(1521~1528)には火災にあいましたが、その後再建され、北条氏照にも信仰され、慶安元(1648)年には徳川氏より明王堂領3石の朱印状が寄せられました。 明治31(1898)年の火災の後、明治39(1906)年庫裡が、昭和14(1939)年本堂と鐘楼が再建されました。 寛永7(1630)年鋳造の銅鐘は太平洋戦争中に供出され、今は新しく鋳造された鐘がかけられています。 寺域は市の史跡に指定されており、庭にあるモクレンの大木は4月初めにはたくさんの花を付け、訪れる人の目を楽しませてくれます。 | ||
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本堂の前には文明5(1473)年11月造立の十三仏結衆板碑があります。 碑の高さは約107センチ、幅は約34センチで、碑面には十仏種子が主尊の弥陀種子のまわりを囲んでいます。 下の方にはこの寺の住職の名が見え、資料としても貴重なものです。 | |
梅香山と号し、本尊は不動明王です。 慶安2(1649)年11月には4石の朱印状が下付され、幕 末まで続きました。 珍しいことにそのうちの9枚が現在も残っています。 現在の本堂は天保3(1832)年に盛芳が再建したといわれています。 境内の地蔵堂には「吉野村」の由来を刻んだ台石があります。 | ||
八幡大神ともいわれ、誉田別天皇(ほんだわけのすめらのみこと)ほか3神が祭られています。 長久年間(1040~1044)に創建されたと伝えられており、 その後、 災害を受け、 現在の建物は宝暦5(1755)年に再建されたもので、 市の有形文化財に指定されています。 社宝として木彫神鳩、神鏡、石剣などがありますが、神鳩は高さ約10センチ、長さ約22センチで、弘安4(1281)年2月に作られた古いものです。 | ||
下山八幡神社から都立天満公園、市立梅の公園にかけての一帯は、およそ2万5000本・200品種におよぶという、関東で名高い梅林、吉野梅郷です。 梅が開花すると、梅を見にくる大勢の人々でにぎわいます。 天沢院(てんたくいん)の境内にある細い石段の上に天満宮が祭られ,前面一帯が都立天満宮公園となっています。 天満公園と道ひとつへだてて、橋を渡ったところは市立梅の公園です。 山の斜面を切り拓いて造成した梅林は,散策しながら梅の花を楽しむことができ、いろいろの品種からなる梅の展示園となっています。 3月いっぱい続く梅祭りの期間中は,梅の香りを求めて各地から多くの人々が訪れます。 | ||
秋葉神社は竹林寺の南側山腹に有り、火産む霊神(むすびのかみ)が祭られています。 かつては秋葉大権現と呼ばれていました。 | ||
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4月の祭りの日には、梅郷獅子舞保存会によって獅子舞が奉納されます。 獅子舞は獅子3頭、ササラ4人で、天保年間(1830~1844)に友田から伝えられたといわれ、市の無形民俗文化財に指定されています。 | |
竹林寺の東側一帯は杉平遺跡です。 ここは多摩川の現在の河原からは60~70メートル高く、赤褐色の関東ローム層が分布する河岸段丘です。 遺跡は上段、下段に広がり、面積は1万5000平方メートル以上と広く、遺跡からは縄文時代中期(約4800~4000年前)の土器・石皿・石斧・石鏃などの多数の遺跡が出土しています。 | ||
和田橋は、昭和40(1965)年に和田町(旧地名は日陰和田)と日向和田の間に架けられた橋で、パイプアーチの橋としては青梅で一番古い橋です。 橋の高さは約25メートルです。 | ||
和田橋を渡り、坂道をあがると旧青梅街道と現青梅街道との交差点に着きます。 明白院は現青梅街道に沿ったところにあります。 天正年間(1573~1592)の創建といわれ、山門は市の有形文化財に指定されています。 | ||