宮の平駅 → 日向和田石灰採石場跡 → 矢倉台 → 叢雨橋 → 青梅坂→ 金刀比羅神社(十二方角名所碑)→ 永山公園(高田浪吉の歌碑)→ 青梅鉄道公園 → 西分神社(井上頼圀等歌碑)→ 乗願寺(小峰峯真の墓・齋藤真指の墓・大板碑)>→ 東青梅駅 | ||
宮ノ平駅の真上にある矢倉台は、展望がとてもよい高台です。 四季を問わず、ここからの展望は心がなごみます。 また、東へのびる永山丘陵には整備された林道(永山ハイキングコース)があります。 この林道は、昭和4(1929)年秋に始まった世界恐慌の裁、失業者を救済するために昭和6(1931)年から作られました。 | ||
叢雨橋(むらさめばし)は永山ハイキングコースの中ほど、青梅坂に架かる長さ約14.5メートルの陸橋です。 | ||
青梅坂は青梅の森下と黒沢の下栃谷を結ぶ峠で、叢雨橋の下にあります。 江戸時代末期に青梅の機屋(はたや)が小曽木や成木の農家から貸機(ちんばた)の青梅縞を持ち帰った道で、いわば「縞の道」です。 昭和52(1977)年にトンネルが開かれたため、今は通る人もいなくなりました。 | ||
市立第一小学校の北側にそびえる金毘羅山の山頂には、寛政9(1797)年に建てられた金刀毘羅神社があります。 祭神は大国主命ほかひと柱で、古くは金毘羅大権現といいましたが、明治3(1870)年に現在の社号に改めました。 石造の亀を台座にした七星権現と十二角名所碑があります。 | ||
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十二方角名所碑は寛政9(1797)年に建てられた石碑です。 安山岩製で、台石の上にのる塔身は高さ約127センチ、直径22.7センチの大きさです。 12の面には、その方向に遠望でき、あるいは存在する景勝地の地名とそこまでの里程、および12名の人物の氏名などが記されています。 | |
永山公園は、青梅駅の北側にあります。 昭和34(1959)年には整地工事が完成し、その後、昭和37(1962)年にグランドの竣工、昭和39(1964)年にはテニスコートとバレーコートの竣工をみ、次第に整備されていきました。 また、公園に隣接して昭和54(1979)年には”風の子・太陽の子広場”がオープンし、市民に親しまれています。 | ||
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永山グランドと鉄道公園の間のアカマツ林の中に、高田浪吉の歌碑があります。 碑には、 たたなつく___ 山見よ___ 姿しつまりて 町はうるほふ ___ 青梅やまかひ と刻まれています。 | |
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高田浪吉(1898~1962)は東京本所に生れた、アララギ派の歌人で、昭和20(1945)年に戦火を逃れて青梅市滝ノ上に疎開してきました。 そして定住を決意し、昭和29(1954)年には裏宿に居を移しました。 青梅をこよなく愛し、多くの歌人を育て、昭和37(1962)年に没しました。 翌年、門下の人々によってこの歌碑が建てられました。 | |
子供達にはもちろんのこと、大人にも喜ばれている鉄道公園は、鉄道開通90周年を記念して、昭和37(1962)年10月に開園しました。 面積は約5100平方メートルで、敷地内にはC51・D51をはじめとした蒸気機関車や展望車、そして新幹線車両などが並べられ、自由に乗って遊ぶことができます。 また、鉄道記念館内には、パノラマ鉄道模型や本物の車内警報機などが展示されています。 開園は9時から5時(冬季は4時)までで、月曜日は休館です。 | ||
古くは妙見社といいましたが、明治維新の際に西分神社と改められました。 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祭り、創建は明徳4(1393)年頃と伝えられています。 例祭は11月3日で、境内には井上頼圀・権田直助・本居豊穎の和歌碑が建てられています。 | ||
乗願寺は勝沼山と号する時宗の寺院で、 本尊は阿弥陀如来です。 西安2(1300)年、三田下総守長綱が他阿真教上人を迎え開山したと伝えられます。 また、 一説には鎌倉光明寺の箕田定恵の開基ともいわれます。 天正18(1590)年に八王子城を攻撃した前田利家・上杉景勝両軍により、 その支城であった師岡城と一緒に焼き打ちされ、炎上しました。 その後、 慶長年間(1596~1615)になって、 24世の覚阿性海によって再建され、 慶安2(1649)年には徳川氏から阿弥陀領として3石の朱印状が下付されています。 寺域は昭和28(1953)年に市の史跡に、 また、 堂寺所蔵の三田氏軍旗と兜前立は昭和39(1964)年に市の有形文化財に指定されています。 | ||
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小峰峯真の墓は本堂左手の階段を登った小峰家累代の墓地にあります。 碑名は滝ノ上常保寺住職支兀(しこつ)雪洞と峯真の孫にあたる小林天渕が記しています。 | |
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峯真は幼少より書を好み、 根岸典則、 浄月律師等と共に支兀や中原章に学んでいます。 書について常に研鑽し、江戸まで名が知られたらしく、彼の教えを受けたものは500人にも及んだといわれています。 享和元(1801)年に73歳で没しています。 | |
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齋藤真指の墓は、 開山墓と並んでいる齋藤家墓地内にあります。 | |
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真指は文政5(1822)年成願寺村の名主の家に生れました。 父・途興は村政にたずさわるかたわら、 古典・和歌・和算を究め、 家塾「籐泉堂」を開いて村民の教育に力を注ぎました。 真指は幼少から学問を好み、 後には平田派の国学を修めるなどして、 父の「籐泉堂」で教えました。 真指の名が広く知られるのは 明治11(1878)年に神奈川県より当寺の行政区画であった第13区の地誌取り調べを命ぜられ、 門弟らと共に1山2町95か村の地誌等を執等してからです。 真指の報告書は『皇国地誌』あるいは『齋藤地誌』といわれ、 郷土史研究の最も重要な分権のひとつとなっています。 真指は他に入間郡などの地誌をも調査・執等しています。 明治37(1904)年に83歳で没しました。 | |
開山墓地に嘉慶元(1387)年8月3日と紀年名の入ったふたつ折れの大板碑があります。 石質もよく、 二条線・種子(しゅじ)の堀も深く、 優れたものです。 年号の左右に、 「これを誦すれば一切の罪業が除かれる」という、 光明真言と、 造立者の名、 梵字で書いた阿弥陀仏が刻まれています。 | ||