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  • 更新日 2011年12月 8日
  • 成木の谷を歩く
    東青梅駅成木一丁目自治会館前軍茶利明王堂安楽寺(都指定史跡)→ 成木2丁目公会堂前の旧成木道分岐点坂久橋成木熊野神社旧天ヶ指共同墓地(板碑)→ 八子谷石灰窯跡成木市民センター新福寺(鉱泉)→ 久道橋慈眼院(木崎平次郎の窯跡)→ 梅ヶ平 → 東青梅駅
    成木石灰と江戸の街
    東青梅駅ひがしおうめ

    成木一丁目なりきいっちょうめ
    自治会館前じちかいかんまえ

    東青梅駅から成木一丁目自治会館までは、都バスで約25分です。 丘陵地の間を走るバスの、車窓からの景色はのどかで、いつ訪れても心が洗われるようです。

    成木地区は、かつては上成木上分・上成木下分・北小曽木・下成木上分・下成木下分に分かれていましたが、明治22(1889)年に合併して成木村となりました。 成木村は昭和30(1955)年に青梅市と合併しました。

    軍茶利明王堂ぐんちゃりみょうおうどう

    明王堂は成木1丁目自治会館から北へ約100メートルのところにあります。 堂内には、昭和51(1976)年に東京都の有形文化財に指定された軍茶利明王立像が安置されています。

    その昔、東遊中の行基がこの地のクスノキの下で光の中に軍茶利の形を見、その形を彫って安置したと伝えられ、鎌倉時代前期以前の製作といわれています。 その後、平将門・畠山重忠・足利尊氏などの信仰を得たという伝説を持つ立像は、高さ297センチの寄木造りで、火焔の光背を背負っています。

    安楽寺あんらくじ

    成木山愛染院と号し、本尊は不動明王です。 和銅年間(708~714)に行基が軍茶利明王を彫刻し一堂に安置、 これが安楽寺の基となったと縁起に記されています。

    鎌倉時代には、源頼朝が家臣の畠山重忠に命じて自分の護持仏愛染明王を納め、また、足利尊氏も暦応年間(1338~1342)には、 大泉坊・財泉坊・吉祥坊・多門坊など6僧坊を建てさせ、 近辺の武士や僧侶に大般若経六百巻の筆写・奉納を命じたと伝えられています。

    その後は乱世が続いたため兵火にかかり、堂宇などは焼失しましたが、永禄年間(1558~1570)に、鎌倉の僧・賢能が再興しています。

    天正年間(1573~1592)には、八王子北条氏の尊信が厚かったようです。 天正19(1591)年には、徳川氏から寺領7石の朱印状を賜っており、当寺の寺域は約8790坪(約2万9000平方メートル)でした。

    現存する棟札によると、本堂は元禄6(1693)年に建立され、また須弥壇(しゅみだん)は元禄7(1694)年に富岡村の横手八郎左衛門が施主になって建てています。

    境内前庭には表門と長屋門があり、腰羽目板張り漆喰壁つきの塀をめぐらしています。 総門を入ると正面に本堂、右側に玄関が続いています。 本堂左手前に入母屋造りの鐘楼があり、その左後方には唐破風造りの向拝をつけた宝塔があります。

    寺宝じほう

    寺宝としては、都の有形文化財に指定されている、平安時代後期の作と推定される木造金剛力士蔵と木造伝金剛力士立像、元禄12(1570)年に江戸の蒔絵師西村三郎兵衛が作った横書きの「愛染院」木造扁額、市の有形文化財に指定されている元亀元(1570)年の八王子北条市の禁制状、天正16(1588)年の北条氏照の鐘借用状など多数あります。

    大スギおおすぎ

    本堂の前の大スギは幹回り約6.5メートルで、大正15(1926)年に都の天然記念物に指定されています。

    成木2丁目自治会館なりきにちょうめじちかいかん
    前の旧成木道分岐点きゅうなりきどうぶんきてん

    旧道に面する成木2丁目公会堂東の小さな交差点は、江戸道と飯能道の分岐点です。 東へ向かえば飯能、南へ向かう細い道をそのまま進めば、旧千賀村峠や笹仁田峠を越え、武蔵野台地を横切って江戸へ向かいます。 明治時代後期頃までは重要な交差点でした。

    交差点の脇には小さな道標が建てられていますが、文字は判読できません。 なお、道標の西にある公会堂前の交差点は、かつての高礼場の跡です。

    坂久橋さかひさばし

    成木川流域は、昭和40(1965)年ころまでは林業が盛んな地区でした。 山地の各地で伐り出された木材は古くから「西川材」と呼ばれ、昭和初期までは、筏に組んで、成木川の流水を利用して川越や江戸(東京)へ送られていました。

    木材を集めありました。 上流から運ばれてきた木材はドバで組まれ、長スギであれば15~16本で1枚の筏を組み、4枚をひと筏として、筏師によって運ばれていきました。

    成木熊野神社なりきくまのじんじゃ

    元亀2(1571)年の創建で、小田原北条氏に属していた在地武士の木崎見作によって、紀州熊野権現が勧請されたと伝えられています。

    本殿は寛永17(1640)年の建築で、当時の肝煎であった木崎家へ入嗣した内藤文蔵により再興されました。 その後、文化5(1808)年に修復されています。 本殿の内部には宝暦3(1753)年の厨子が安置されています。

    昭和53(1978)年、本殿が都の有形文化財に、境内が都の史跡にそれぞれ指定されました。

    覆屋と拝殿は大正6(1917)年に建築されています。 絵馬殿は文化5(1808)年に建築された旧本殿覆屋で、大正6年に本殿覆屋を建て替えた時、絵馬殿として流用したものです。

    神楽殿と手水舎は昭和10(1935)年に建築され、手水鉢は巨石の一部を鉢型に繰り抜いて作られ、明治37(1904)年の刻銘があります。

    鳥居から拝殿までの184段の石段は、天明元(1781)年に石灰岩を切って造られ、石工は信州高遠の森谷市右衛門でした。 かつての階段の幅は三尺でしたが、大正6(1917)年の拝殿建立の際に、五尺に拡張されています。

    旧鳥居きゅうとりい

    旧鳥居は文政2(1819)年に石灰窯主の、江戸・ 町4丁目の木崎喜三郎、牛込神楽坂の新井新蔵、相州の佐藤与兵衛の寄進により建立されたもので、石工は新井亀五郎でした。 現在の鳥居は大正6年に旧鳥居が倒壊したため再建したものです。 また、旧鳥居に掲げられていた石造扁額には「熊野社」の文字が浮彫りされています。 筆者は江戸時代の儒学者・菊池五山で、現在、額は拝殿に保存されています。

    大黒天社だいこくてんしゃ

    大黒天社は昭和8(1933)年、 柱収納庫は昭和10(1935)年に建築され、また石造の小さな弁天社は寛政9(1787)年、水神像は明和元(1764)年の刻銘が発見されています。

    獅子舞ししまい

    10月10日には、獅子舞が奉納されます。口伝によると、ここの獅子舞は寛永年間(1624~1643)に始まったといわれ、3匹の獅子・ササラ・棒使いなどによって舞われます。

    旧天ヶ指共同墓地きゅうあまざすきょうどうぼち
    板碑いたぴ

    青梅市立第8小学校の校庭の一隅は天ヶ指共同墓地(阿弥陀堂)の跡で、ここには石仏と板碑が祀られています。

    板碑は幅約32センチ、高さ約100センチで、碑面には康安2(1362)年10月と彫られ、また釈迦三尊もりっはです。 左右の光明真言と釈迦三尊種子とのとりあわせが特異で、市の有形文化財に指定されています。

    八子谷石灰窯跡はちだにせっかいがまあと

    成木4丁目で、成木川の南にある鉄工場の近くには、八子谷石灰窯跡と呼ばれるところがあります。 窯跡は2基あり、正木沢の東側のものは武藤窯、西側のものは田中窯と呼ばれています。 窯跡は高さ3~3.5メートル、幅10~12メートルの石垣と、その前面の平坦なところからなっています。

    佐藤窯は明治35(1902)年頃まで武藤氏によって、また田中窯は明治20年代後半まで田中氏によって石灰岩が焼かれ、消石灰が生産されたところです。 原料の石灰岩は正木沢の上流にあるホンマから運ばれていました。 石灰岩のホンマには、小さな鍾乳洞があります。

    成木市民センターなりきしみんせんたー

    青梅市の面積の約21パーセントを占める成木地区の中心地で、昭和30(1955)年までは成木村の村役場があったところです。

    ここは成木川上流と支流の北小曽木川が合流するところで、大正時代末までは、木材の集積場もありました。

    新福寺しんぷくじ

    滝沢山大雄院と号し、本尊は虚空蔵菩薩です。 天正8(1580)年に栄芝順富を開山とし、佐藤助十郎・木崎平次郎・野村庄七郎と共に、天正年間以降、この地区で石灰焼をはじめた川口弥太郎により建立されました。

    寺は明治6(1873)年に火災にあいましたが、明治22(1889)年に再建されました。火災の跡は、寺の西側にある石碑の基壇に残っています。

    鉱泉こうせん

    寺の背後にある小さな井戸は鉱泉として知られています。 かつては近所の人たちがこの井戸の水を汲んで持ち帰り、わかし湯として利用していまいた。

    久道橋くどうばし

    久道橋の周辺では、かつて石灰焼が行われていました。 この地区で石灰焼を始めたのは、川口弥太郎で約400年位前のことです。 石灰焼に関する古文書は、『河口家文書』として知られています。

    現在、橋の付近には、石灰岩の採石場があります。 また、石灰焼跡は久道橋の西側および南側にありました。

    慈眼院じがんいん

    成仏木山と号し、本尊は釈迦如来です。 二俣尾にある海禅寺の末寺で、天正年間(1573~1592)に、海禅寺6世の順富和尚が開山したと伝えられています。

    慈眼院の前に広がる平坦地は約6450平方メートル(約1950坪)の広さです。 ここは、成木地区で石灰焼を始めた木崎平次郎の後胤が、明治30(1897)年頃まで屋敷を構え、石灰焼を続けていたところです。 屋敷跡は平坦地の西端にあり、窯跡は平坦地の東端に残っています。

    成木石灰となりきせっかい
    江戸の街えどのまち

    青梅市の面積の約103.26平方キロメートルですが、そのうち約66%が山地、・丘陵地で、その産地のいたるところに石灰岩が埋まっています。 最も埋蔵量の多いのは、北部の成木川流域で、ここでは天正年間(1573~1592)頃から、石灰岩を焼いて消石灰を作っていました。

    成木川流域で生産された消石灰は、「成木石灰(なりきいしばい)」と呼ばれています。 以前から生産されていた成木石灰を有名にしたのは慶長11(1606)年の江戸城修築からです。 この年の秋に完成した江戸城の泥壁を風雨に強く、またきれいにするために成木石灰の供出が命じられました。

    その後、江戸城の修改築が行われるたびに成木石灰は御用石灰として利用され、さらに、日光東照宮・名古屋城・二条城・大阪城などの白壁にも成木石灰が用いられました。 消石灰を塗った壁は漆喰壁といいます。 漆喰壁は見た目にきれいであるばかりでなく、防火壁の役目も果たしましす。

    火事が起こっても漆喰壁は焼け残ったため、裕福な武士や商人たちは競って成木石灰を買い求めました。 おかげで、成木地方は景気が良くなり、江戸までの成木街道の途中にある箱根ヶ崎・小川・田無・中野などの宿もにぎわいました。

    成木地区では、これまでに多くの窯跡が発見されていますが、成木6丁目の慈眼院の前の木崎平次郎の窯跡は代表的な窯跡で、市の史跡に指定されています。

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