軍畑駅 → 旧鎌倉街道 → 平溝橋下の滝 → 天之社 → 清浄の滝 → 常福院 → 高水山 → 岩茸石山 → 馬ぼとけ峠 → 惣岳山(青渭神社奥ノ院)→ 真名井の井戸 → 青渭神社 → 旧青梅街道 → 沢井駅 | ||
軍畑駅は多摩川が作った河岸段丘のうち最も高い段丘面上にあり、二俣尾駅をすぎ、平溝鉄橋を渡ると急に奥多摩の山峡に入ります。 電車内の行楽客が歓声をあげるのもこの場所です。 駅前に立ち、南を展望すると景観がすばらしく、東には雷電山や三田氏の山城のあった辛垣城がそびえています。 軍畑駅は、御岳駅や沢井駅とともに昭和4(1929)年9月ね開催されました。 高水三山の登山口として、また、成木方面にもいけるとこらから、多くの人々に利用されています。 軍畑の地名は、永禄年間(1560年代)この付近一帯で、多摩川上流を支配していた三田氏と、八王子付近を支配していた北条氏が戦ったことに由来すると言われています。 | ||
軍畑駅から東へ、踏切を渡って進めば、 旧鎌倉街道へ出ます。 旧鎌倉街道は秩父盆地や北関東の各地と、 鎌倉を結ぶ重要な道でした。 道の脇には、 所どころに供養塔や馬頭観音などが建てられており、 住民や旅人を見守る守護神として信仰されています。 | ||
この滝は旧鎌倉街道から高水山参道が分岐する、 平溝橋の下にあります。 滝の高さは約4メートルの滝壷があります(通称、堂の釜)。 滝の下では、昭和30(1955)年頃まで大きな水車が回ってました。 | ||
天之社は二俣尾字平溝にある高源寺の隣にあり、 祭神は天照大神ほかひと柱です。 創立は不明ですが、牛頭(ごず)天王を祭り、 昔は天之宮・天之堂などとも呼ばれ、 寛文検地帳にもその名が見られます。 また、 享保2(1717)年、 この社で雨ごいをしたという記録もあります。 | ||
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神社では、 毎年5月5日の祭礼の日に獅子舞が奉納されます。 獅子は1頭で、新緑の平溝部落内を一巡した後、 社前で舞います。 この獅子舞は市の無形文化財に指定されています。 | |
高水山登山道の4合目にある滝で、比高は約2メートルです。 小さな滝ですが、参道の脇にあるため、古くから心身を清める滝として参詣者から利用され、 ハイカーからは水汲み場として、また、地元の人達からは、、「ちょっといっぱい」と呼ばれ親しまれています。 | ||
高水山龍学寺と号し、真言宗安楽寺の末寺です。 山火事の時、 建物と共に古文書も焼失してしまったので成立は不明ですが、 寛永年間(1624~1643)以前のようです。 不動堂には浪切白不動像が祀られており、 堂字は文政5(1822)年4月に再建されています。 境内の鐘楼には、享保3(1718)年8月鋳造の銅鐘がかけっられています。 本堂正面には小峰峯真筆の「一猊閣(いちげいかく)」の木額が掲げられ、峯真の額として市内で最大のものです。 | ||
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不動堂の前では、毎年4月8日に近い日曜日に獅子舞が奉納されます。 この獅子舞は明和5(1768)年頃に、奥多摩町の大丹波から伝わった角太夫流で、成木7丁目の高水山獅子舞保存会が受けついでいます。 | |
高水三山のうちの第1峰(標高759メートル)で、都内から比較的近いことや登山道が整備されていることから、古くから身近な山登りの場所として知られています。 | ||
岩茸石山は高水山の西にそびえる標高793.3メートルの山です。 高水山からは尾根道歩きで約30分です。 足元のマツムシソウ・ホタルブクロ・ヤマホトトギスなどの野山の花々が登山者の心をなぐさめてくれます。 山頂から北の黒山(842メートル)に向かうところには名坂峠が、 また、 山頂の南には馬ぼとけ峠があります。 | ||
二俣尾大沢と奥多摩町大丹波八桑を結ぶ峠で、市内では最も高い(標高722メートル)峠です。 以前は奥多摩方面から高水山詣での近道として利用されていましたが、 今では利用する人もなく、雑草の生い茂る道となっています。 | ||
惣岳山は岩茸石山の南にそびえる標高756メートルの山です。 山頂付近の地質はチャートです。 山頂周辺は急勾配で、武蔵野台地からながめると、 天に突き上がった独特の形をしています。 木々に囲まれた山頂には、青渭神社の奥ノ院がありますが、 付近には雷がたびたび落ち、 火災にもあっているため、社殿は弘化2(1845)年に建築されたものです。 | ||
真名井ノ井戸は青渭ノ井とも呼ばれ、 惣岳山から御岳の方へ、 5~6分くだったところにあります。 登山道の脇にある井戸のため、 登山者にも親しまれています。 この井戸は青渭神社の境域にあるため、古くから霊泉としてあがめられており、 今でも深く信仰されています。 | ||
青渭神社は、 崇神天皇の時代の創建とされ、 かつては惣岳明神とも呼ばれていました。 祭神は大国主命です。 創立年代や社名の由来についての詳細は明らかではありませんが、 文政5(1822)年に書かれた『新編武蔵風土記稿』には「天慶年間に起こった、 平将門の反乱を追討するため、 鎮守府将軍源経基がこの地を通りかかると、 多摩川の水の色が急に藍色に変わったので、 人びとは驚き、 経基も馬を留めて見ていました。 すると、 どこからか童女が現れて経基に向かって、 『将軍の追討は神の護持があるので勝利まちがいない』といい消えてしまいました。 多摩川の水も再び元のようになったといいます。 後に経基が童女の告げたように将門を滅ぼしたことから、この多摩川のめでたい前兆をとって青渭としたということです。」と、 紹介しています。 一方、 この社は延喜式内社多摩八座のひとつであるともいわれています。 | ||
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青渭神社標石は拝殿下に建つ鳥居の傍らにあります。 裏面に「天の下青人草を生したてかれぬ青沼の神や守らん。 常麿」、 また、 右側面に「従是、 本社廿八町余、 高水、 子のごんげん道」と彫られ、 江戸末期の造立といわれています。 | |
青渭神社から10分前後くだったところの、 青渭橋が架かっている幅3~5メートルの道路は旧青梅街道です。 現在の青梅街道は昭和初期に完成した道で、 それまではこの旧青梅街道が青梅と奥多摩を結ぶ幹線道路でした。 | ||