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  • 更新日 2011年12月 8日
  • 町屋街道に沿って
    東青梅駅六万薬師堂六万通りの井戸)→ 追分師岡会館(旧二日市場跡)→ 野上の一本桧跡霞台遺跡群報恩寺(延命地蔵・板碑・その他の文化財)→ 常盤樹神社一里塚のエノキ藤橋城跡宝泉寺(板碑)→ 七日市場跡正福寺(今井氏墓)→ 浮島神社七国峠薬王寺今井城跡金子橋 → 東青梅駅
    東青梅駅ひがしおうめえき

    六万薬師堂ろくまんやくしどう

    六万薬師堂は、光明寺に属しています。 天正18(1590)年に悪疫が流行したため、天寧寺8世・正翁長達が法華経六万部を誦して、疫病の終息と師岡城戦死者追福の祈祷し、また、天寧寺開山の一華文英の所持していたう薬師如来像を本尊として建立したと伝えられています。

    お堂は宝形造りで、間口は約4.7メートル、奥行が約6.5メートルの広さです。

    六万通りの井戸ろくまんどうりのいど

    薬師堂境内の東隣には、かつて、塩・砂糖等よろず日用品の販売をする原島家の「おみせ」がありました。 六万通りに面する東側には、花崗岩の井戸桁。屋根と井戸車を備えたつるべ井戸が残っています。 市の水道が、拡張された昭和32年頃まで、六万通りとして大切に使われたものです。

    追分おいわけ

    六万薬師堂から東へ約300メートル進んだところの三叉路は、古くから追分と呼ばれ、青梅街道と川越街道の分岐点でした。

    右の方へ進めば箱根ヶ崎や田無を通って江戸(東京)へ向かいます。 一方、左へ進めば扇町屋(入間市)を通って川越へ向かいました。

    分岐点にある高さ約55センチの道標は、天明6(1786)年3月に建てられており、「右江戸道、左はんのふみち加王ごゑ(川越)」と刻まれています。

    師岡会館もろおかかいかん

    師岡会館は、追分から東へ350メートル飯能道の一つが北に分かれる角にあります。

    会館の南側、すなわち川越道と江戸道とに挟まれた地区は「道間(みちま)」と呼ばれていますが、古くは「道間」のほか「観音堂」「二日市場」「乙黒」等に分かれており、永禄年間(1560年代)から、この地方(西多摩西北部)を支配していた者が、二日市場を開いた旧地であると伝えられています。

    会館入口には、文化11(1814)年の庚申塔があり、中庭には馬頭観音3基が並んであり、文化11(1814)年・文久2(1862)年・明治13(1880)年の年号が彫られています。

    野上の一本桧跡ながみのいっぽんひのきあと

    「野上2丁目」の三路地には、昭和44(1969)年までは「野上の一本桧」と呼ばれる、大きなヒノキが植えてありました。

    根本には、文政12(1829)年の馬頭観音がて建てられており、そこには「右あふぎ町や か王こへ、 左 はんのふちヽ婦 野上村」と彫られていました(現在は、野上第1自治会館前に所在)。

    青梅から進んできて、左側へ進めば金子橋を渡り、「山根道(根通り道)」と通って扇町屋へ向かいますが、山根道は霞川沿いの低湿地を通るため、雨の日などはヌカルミが多い道でした。

    一方、右側の道は「原の道」と呼ばれ、ヌカルミはありませんでしたが、人家もなくさみしい道でした。

    霞台遺跡群かすみだいいせきぐん

    野上2丁目の三叉路付近から東へ約1キロメートル、南北に約500メートルの範囲は市内で最大規模、都内でも規模では有数の霞台遺跡です。 遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期のものが多く、そのほか、奈良・平安時代の遺物も出土しています。

    発掘された住居跡からの遺物は、すべて青梅市郷土博物館に保存されています。

    報恩寺ほうおんじ

    藤橋山正覚院と号し、本尊は阿弥陀如来です。 調布市深大寺の末寺で、市内唯一の天台宗の古刹です。

    弘仁13(822)年、延暦寺の亮海により開創されたと伝えられます。 本堂前にある地蔵堂は、木造宝形造茅葺型銅板葺で、桃山時代の建築様式とされ、市内でも重要な建築物です。

    ●延命地蔵えんめいじぞう

    堂内には延命地蔵が安置されています。 この地蔵像は永正9(1512)年に三田氏宗・政定の親子によって寄進されたことが、胎内に記されています。


    胎内には

    たのむぞよ__ながく命を__のぶるてふ

    仏の御名を__身にしたくへて__政定


    と書いた、政定の和歌の短冊が納められています。

    ●報恩寺板碑ほうおんじいたぴ

    本堂の右手には、市の有形文化財に指定されている貞和3(1347)年と延文2(1357)年の板碑があり、共に弥陀一尊種子の上部に刻んでいます。

    ●報恩寺文化財ぶんかざい

    門前には青面(しょうめん)金剛(享保7・1722年)、庚申塔(天保3・1832年)、光明真言塔(安政2・1855年)、文字馬頭などが見られ、また、境内にはお地蔵さん(安永7・1788年)や六地蔵(年不明)があります。

    常盤樹神社ときわぎじんじゃ

    祭神は伊弉那美命(いざなみのみこと)ほか9柱で、例祭は4月1日です。 明治2(1869)年に旧熊野権現・若宮八幡宮・山王権現・稲荷大明神・天満天神の5社を合社として、現在の地に祭られました。

    初めは植竹神社といいましたが、周囲約3.6メートル(1文2尺)余のカシの老樹があることから、社号を常盤樹神社と改称しました。

    一里塚のエノキいちりづかのえのき

    今寺2丁目の交差点にあります。 ここは青梅駅前からちょうど1里(約4キロメートル)の距離です。 東西にのびる山根道(根通りの道)と南北にのびる伝馬街道が交わるところで、「根通り道」(一里塚~七日市場~木蓮寺}の一里塚として植えられたものです。

    目通り幹回りは3.42メートル、樹高約13.5メートルで、市の天然記念物に指定されています。 枝ぶりもよくかつては旅人の休息の場所として利用されていたことでしょう。

    藤橋城跡ふじはしじょうあと

    藤橋遺跡は武蔵野台地の北側にあり、西側と北側とに水田がせまっています。 現在の城域は東西約70メートル、南北7悪80メートル約80メートル土塁と空掘りが残っこっていす。

    城は、武蔵七党の一つである平山李重の後裔といわれる、平山越前守重吉の利城と伝えられています。 重吉の位碑は報恩寺にあり、「秀頼院橋山智藤大居士、 天正12(1584)年」と書かれています。 天正18(1590)年の北条氏の滅亡とともに落城しました。

    宝泉寺ほうせんじ

    藤橋山と号し、真言宗豊山派塩船寺の末寺で、応永元(1394)年の開創とされています。 本尊は阿弥陀如来で、像の胎内には、文亀4(1504)年の銘が書かれています。

    また、境内には「大青面金剛」庚申塔(寛政5・1793年)、六地蔵石幢(どう)(文化3・1806年)、名号塔などもあります。

    ●宝泉寺板碑ほうせんじいたぴ

    墓地入口には、市の有形文化財に指定されている板碑が2基あります。 応安7(1374)年の板碑は、上部に弥陀三尊種子を刻んでいます。 そのほかに、見事な願文の、康永2(1343)年の板碑をはじめとし、寺内には合計21基の板碑が確認されています。

    七日市場跡なのかいちばあと

    七日市場跡には、東西にのびる山根道(根通り道)と、南北にのびる秩父街道が交わるとことです。

    市は、藤橋城主の平山氏が開いたもので、秩父街道に沿って天正年間(1573~1592)まで、毎月7日・17・27日の3回、市が立っていました。

    北の山地や丘陵の村々と、南の広大な武蔵野台地に点在する村々を結ぶところに位置するため、市が立つ日はにぎわったことでしょう。

    正福寺しょうふくじ

    今井山と号し、神奈川県にある時宗・無量光寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来です。 開創は正応年間(1288~1293)と伝えられ、開山の一扁上人は正応2(1289)年の示寂(じじゃく)といわれています。

    門前には、お地蔵さん(享保4・1719年)、六地蔵石幢(どう)(年不明)、文字馬頭(文政10・1827年)、六手の馬頭さん(明和3・1766年)、三界万霊のお地蔵さん(宝暦2・1752年)が並んでいます。

    境内には、安永5年(1776)の摩利支天石像があり、本堂の横には、六地蔵もあります。 本堂の前方西側には薬師堂があり、中には薬師如来像が安置されています。

    ●今井氏墓いまいしのはか

    本堂裏の境内墓地の一角には19基の宝篋印塔と、五輪塔が整然と並んでいます。 これは、鎌倉時代にこの地に勢力を持っていた今井氏の墓と伝えられています。

    浮島神社うきしまじんじゃ

    祭神は応神天皇ほかひと柱で、 例祭は4月の第1日曜日です。 文禄3(1594)年に平山小十郎ほか3名による再建の棟札があり、 他にもいくつかの棟札が残っています。 現在の社殿は、 18世紀末のものです。

    霞川増水の際、 社殿の敷地が浮島のようになったことから、その社名となったと伝えられています。 旧社名は浮島天満社といいます。

    七国峠ななくにとうげ

    標高220メートルで、今井山根と飯能市岩淵を結ぶ峠です。 峠付近の尾根道は平坦で、見晴らしが良いことから、「七つの国が見える峠」という意味の地名がつけられました。

    室町時代に羽村以西の多摩川流域を支配した三田氏の主家・山内上杉氏は、群馬県(上州)白井が本拠地でしたので、勝沼から七国峠を通って飯能へ向かう「上州道」は重要なコースでした。

    七国峠付近の林道は整備されており、ハイキングコースとしても親しまれています。 峠には「弥兵衛松」があります。

    薬王寺やくおうじ

    医王山と号し、真言宗富山派で、本尊は薬師如来です。 法相宗の僧良誓上人の建立とも、 あるいは足利尊氏の開基ともいわれています。

    境域には昭和28(1953)年に市の史跡に指定されています。 山門は鐘楼門で、 門には銅鐘があります。 この銅鐘は寛政6(1796)年に青梅裏宿に住んでいた嶋村照思の鋳造で、市内で製作された唯一のものです。 銅鐘は昭和39(1964)年に、 市の有形文化財にされています。 境内には、明和3(1766)年の石橋供養塔をはじめとした石仏・板碑が残っています。

    本堂の西側にある丘の上には七国山不動堂があります。 2月3日の節分の日には、その年に成人式を迎えた青年が、本堂前からたいまつをかついで登り、護摩に点火します。

    今井城跡いまいじょうあと

    今井城跡は薬王寺から南東へのびる稜線の先端にあり、北・東・南の3方は小川や湿地に囲まれています。 城跡は2重の空掘と土塁に囲まれ、また南側には水堀らしい跡も残っています。

    昭和42(1967)年の発掘の結果、正和元(1312)年から大永2(1522)年までの、37基の板碑や陶器などが発見されました。

    城は武蔵七党のひとつである児玉党に属した、今井四郎左衛門尉経家の流れをくむ今井氏の居城で、今井氏は天正年間(1573~1592)に滅びたと伝えられています。

    近くには、鍛冶屋・堀ノ内・城ノ腰・馬場崎といった、城と関係が深い地名が残っています。

    金子橋かねこばし

    金子橋は青梅市今井と入間市木蓮寺の間に架かる橋で、「金子」の地名は金龍山瑞泉院に墓がある金子氏一族に由来するといわれています。 金子氏は、鎌倉時代の軍記物語として有名な『平家物語』に出てくる武将です。

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