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  • 更新日 2011年12月 8日
  • 勝沼城から大門まで
    東青梅駅 → 旧勝沼三叉路旧青梅飯能道黒沢引込線跡天寧寺(山門・銅鐘・中雀門・天寧寺三田氏の位碑・霞池)→ 師岡神社(シイ)→ 光明寺(六万薬師堂)→ 勝沼城跡妙光院石神ノ井と石神井神社宗泉寺(宗泉寺のカヤ・福徳ニ年の板碑・宝篋印塔)→ 馬場遺跡塩船観音寺(仁王門・阿弥陀堂・大スギ・「東路の律登」の碑・銅鐘・観音堂(本堂)・木造十一面千手観音像・木造二十八部衆立像・大般若経 ・薬師堂と木造薬師如来立像・永仁の大板碑)→ 春日神社(獅子舞)→ 大門 → 河辺駅
    旧勝沼三叉路きゅうかつぬまさんさろ

    青梅街道が青梅線と交わるすぐ東側のところは、勝沼三叉路と呼ばれ、根ヶ布を経て小曽木、成木方面へ行く道はここから始まっていました。 入間川までの中部馬車鉄道(明治34・1901~大正9・1920年)の駅も、この三叉路の東側にありました。

    旧青梅飯能道きゅうおうめはんのうどう

    旧勝沼三叉路から北へのびる幅約4メートルの狭い道路は、青梅から小曽木・成木地区そして飯能へ向かう、古くからの重要な道路でした。 荷馬車や手車の往来が今でもしのばれます。 また、昭和初期には小さな乗合自動車が狭い道を飯能まで往復していました。

    柿沢を横切る鉄道公園入口の信号の西には「武蔵国石動(いするぎ)神社入口」と刻まれた道標が建てられています。 この道は勝沼と師岡の境界にもなっており、昭和26(1951)年までは、西側は青梅町、東側は霞村でした。

    黒沢引込線跡くろさわひきこみせんあと

    黒沢引込線は、大正7(1918)年に浅野セメント株式会社が、石灰石を運び出すために黒沢2丁目の峯之橋の上を起点とし東青梅駅の東側まで敷設しました。

    石灰石の産出量が少なかったため、大正9(1920)年には採掘が中止になり、大正11(1922)年に鉄道も撤去されてしまいました。 廃止後も長い間、「汽車みち」と呼ばれ、黒沢から東青梅への近道として利用され、また、付近の子共達たちの遊び場となっていました。

    天寧寺てんねいじ

    天寧寺は高峯山と号し、 曹洞宗の名刹で、 本尊は釈迦如来です。 もともとこの地には、 平将門創建の真言宗高峯寺があったとされています。

    その後、 文亀年間(1501~1504)に杣保三田谷の領主であった勝沼城主三田弾正忠正定が、 甲州中山広厳院の第2世・一華文英を開山として創建しました。

    江戸時代には末寺37を数えるほどの大きな寺で、 慶安2(1649)年には徳川氏から20石の朱印状が与えられえています。 2度の火災にあい、 宝永4(1707)年に本堂が再建され、 嘉永年間(1848~1854)までに、 現在のような七堂伽藍が整備されました。

    しかし、 戦後、 各堂宇のいたみがひどくなってきたため、 昭和35(1960)年から順次解体修理が行われ、 昭和57(1982)年に完了しました。

    総門をくぐって参道を少し行くと、 寺の全景が見えてきます。 丘陵の地形をうまく利用した寺域全体は、 曹洞宗の典型的な七堂伽藍の配置となっているため、 昭和35(1960)年に都の史跡に指定されました。

    ●山門さんもん

    山門は宝暦9(1759)年に建てられ、昭和57(1982)年に解体修理が施されました。 階上には、かつて御岳山世尊寺の本尊になっていた、永正8(1511)年に下野弘円が修復した木造釈迦如来座像(市の有形文化財に指定)と、木造十六羅漢像が安置されています。

    ●銅鐘

    山門の左奥にある鐘楼の銅鐘は、大永元(1521)年に、 この寺の開基である三田弾正忠政定が寄進した、 市内では最古のものです。 鐘面には三田氏が平将門の後胤であることが記されています。

    昭和23(1948)年に国の重要美術品に指定されています。

    ●中雀門なかすもん

    嘉永6(1853)年に建立された中雀門は、 唐破風造り(からはふうづくり)の様式です。 中雀門を入ると正面に本堂、左手に禅堂、右手に庫裡が、 そしてそれらを結ぶ回廊があります。

    ●三田氏代々の位碑みたしだいだいのいひ

    天寧寺は三田氏の尊信があったため、寛永4(1627)年に遺臣野口刑部少輔秀房が三田氏代々の位碑を天寧寺に納めています。 その裏書が市の有形文化財に指定されています。

    ●霞池かすみいけ

    本道の背後には霞池があり、霞川の源流となっています。 樹木に囲まれた池は、いつ見ても魅があります。

    師岡神社もろおかじんじゃ

    神社の創建は嘉元年間(1306~1306)で、祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)ほか2柱です。

    光明寺草創の際、寺門の守護神としてこの祭神を勧請し、江戸時代には熊野三社大権現を称されました。

    ●シイ

    社殿のわきにある2本のシイの木は、樹齢500年前後と推定されています。 幹回りは5.3メートルと4.3メートルで、枝ぶりが見事であることから、昭和56(1981)年に市の天然記念物に指定されました。

    光明寺こうめいじ

    宝蔵山と号し、本尊は如意輪観音です。 天寧寺の末寺として天文3(1534)年に、霊隠宗源和尚によって開山されました。

    寺の背後の丘陵は勝沼城(師岡城)があったところで、城山という地名です。

    ●六万薬師堂ろくまんやくしどう

    寺の南約350メートルのところにある六万薬師堂は、光明寺が管理しています。 この堂は天正18(1590)年に悪疫が流行していたので、僧・正翁長達が法華経六万部を誦して祈禱(きとう)し、一華文英が所持していた薬師像を本尊として建立したものと伝えられています。

    勝沼城跡かつぬまじょうあと

    光明寺の北側一帯の丘陵は、東西約400メートル、南北約170メートルの規模を持つ、鎌倉時代から室町時代にかけての中世の城跡です。 大きく分けて4つの郭からなり、土塁や空掘りなどが残っています。

    城は西多摩の西北部を支配していた三田氏の本拠地でしたが、永禄年間(1560年代)に八王子滝山城主の北条氏照に攻められて落城しました。

    その後、勝沼城は北条氏家臣の師岡山城守将景が入城したため、師岡城とも呼ばれるようになりました。 師岡氏は天正18(1890)年に滅んだと推定されています。

    妙光院みょうこういん

    城跡の麓にある妙光院は師岡山城守将景の姉が天正2(1574)年に開山したと伝えられ、 地久山と号し、 本尊は千手観音菩薩坐像です。 背面に「武州杣保内野上郷地久山妙光禅院干時天正十三年(以下略)」の銘があり、 市の有形文化財に指定されています。

    石神ノ井といしがみのい
    石神井神社しゃくじいじんじゃ

    妙光院の西方の勝沼城の登り口下に「石神ノ井」という沸泉があります。 この井戸はどんな干天のときも涸れることがなく、城兵が飲料水に使っていたと伝えられます。 その井戸を掘ったとき大石棒を得たので、それをご神体として祭ったのが「石神ノ井」の上にある石神井神社です。

    宗泉寺そうせんじ

    宗泉寺は宝龍山と号し、宗洞宗に属し、本尊は地蔵菩薩です。 天文19(1550)年に天寧寺4世・説翁星訓を開山、師岡山城主将景を開基とし創建せれています。 宝永年間(1704~1710)に須田大隅守盛輔によって再興され、徳川幕府から地蔵堂領として3石の朱印状を下付されています。

    宗泉寺前一帯は丘陵の谷川から流れる谷水を利用した、谷戸田が西北から東にかけて広がっており、さらに背後のも谷戸田があります。

    ●宗泉寺のカヤそうせんじのかや

    目通り4.3メートル、高さ24.5メートルの大きさで、上部に傘状の枝が大きく張り、下部の枝がいちじるしく垂下しているのが特徴です。

    昭和40(1965)年に都の天然記念物に指定されました。

    ●福徳2年の板碑ふくとくにねんのいたぴ

    この寺には、私年号(福徳2年)の板碑が3基あります。 私年号とは朝廷が正式に定めた年号ではなく、民間が私的に用いた年号で、この年は延徳3(1491)にあたります。

    私年号の入った板碑は珍しく、市内には河辺の東円寺に同一様式のものがあるのみです。 3基のうち完全な形の2基が市の有形文化財に指定され、本堂に収蔵されています。

    ●宝篋印塔ほうきょういんとう

    共同墓地の左には、師岡山城主将景の室の墓と伝えられる「永禄二年己末三月二十八日、月窓妙 禅定尼」とかすかに判読できる宝キョウ印塔があります。

    相輪部分に五輪塔の空風輪がのり、笹の部分は基礎に比べてやや小ぶりで、不揃いのものです。 また、記年名・戒名の入った基礎の下に反花座(そりばなざ)のついた台石がおかれています。 これらのことから、この塔は、もともと代石のない塔だったと思われます。

    馬場遺跡ばばいせき

    馬場遺跡は吹上小学校の敷地に位置しています。 小学校の建設に先立つ昭和57(1982)年から59(1984)年まで発掘調査が行われましたが、その結果、旧石器時代から平安時代にかけての遺跡だということがわかりました。

    旧石器時代の細石刃や?頭器と呼ばれる石器が発見され、弥生時代の住居跡郡と「方形周溝墓」が出土し、また各種の磨製石器や土器も発見されました。 奈良・平安時代の住居跡も23基発見され、どの家からもカマドが見つかりました。 そのほか、多くの木製品が出土した井戸状遺構や、鍛冶工房跡なども確認されています。

    遺跡は小学校の校庭となっていますので、見学することは出来ませんが、発掘された遺物は青梅市郷土博物館に保管されています。

    塩船観音寺しおぶねかんのんじ

    平安時代の貞観年間(859~877)には、比叡山の僧安然が塩船に来て観音堂を再興し、阿弥陀堂・薬師堂、そして杉本坊・梅本坊・円林坊など12坊を建て、さらに七社権現を寺の護りとして勧請し、寺運隆盛をきわめたようです。

    そして、室町時代には三田氏の深い尊信があって、諸堂諸仏の再興がなされました。 江戸時代には観音堂領として5石の朱印状が下付されています。

    ●仁王門におうもん

    三間一戸の八脚門で、屋根は切妻造りです。 軒下の木組みに力強さが感じられ、室町時代の創建と推定されています。 門内の左右に安置されている阿(あ)・吽(うん)の2体の金剛力士立像は鎌倉時代の造立とみられます。 門は国の重要文化財に、仁王像は都の有形文化財に指定されています。

    ●阿弥陀堂あみだどう

    桁行4間、梁間3間、一重の寄棟造りで、かつては茅葺でしたが、昭和46(1961)年の解体修理の際、銅板葺きに帰られました。 堂内には阿弥陀三尊像が祭られています。 阿弥陀堂は仁王門と共に、昭和21(1946)年に国の重要文化財に指定されました。 安置されている三尊像のうち、中央の阿弥陀如来像は、高さ約105センチ、一方、向かって右側の観音菩薩、左側の勢至菩薩はいずれも約90センチの高さです。

    ●大スギおおすぎ

    薬師堂にあがる石段の両側には、都の天然記念物の大スギがあります。 左側のスギは目通り幹回り約7.8メートル、高さ約38メートル、右側のスギは目通り幹回り6.8メートル、高さ38メートルの大きさです。

    ●『東路之津登』の碑とうじのひ

    鐘楼の前には紀行文『東路之津登』の一説が書かれた石碑があります。 この紀行文は三田氏宗・政定が、京都の連歌師・柴の屋宗長を呼び寄せた時の状況が書かれています。 宗長は永正6(1509)年8月に勝沼城を訪れ、たびたび連歌の会を催しています。

    ●銅鐘

    本堂左手の鐘楼には、市の有形文化財に指定されている、寛永18(1641)年鋳造の銅鐘がかかっています。 口径67センチ、高さ91センチの大きさで、銘文によると、権大僧都良忍の菩提のために、近藤惣太郎が施主となり、桜沢市兵衛尉盛次が作ったというものです。

    ●観音堂(本堂)かんのんどうほんどう

    室町時代末期(16世紀前半)の建物といわれ、桁行5間、梁間5間の広さで、屋根は寄棟造りです。 昭和21(1946)年に国の重要文化財に指定されています。 堂内には建物と同じ時代の、入母屋式の1間厨子が置かれ、これも国の重要文化財に指定されています。 さらに、1間厨子の中には都の文化財に指定されている、木造十一面千手観音菩薩立像が安置されています。

    ●木造十一面もくぞうじゅういちめん
    千手観音像せんじゅかんのん

    千手観音像は高さが約140センチの寄木立像で、文永元(1264)年の造立です。 台座には、永正9(1512)年に、勝沼城主の三田禅正忠氏宗が、下野(しもつけ)(栃木県)の仏師弘円に修理させた旨の銘が残っています。

    ●木造二十八部衆もくぞうにじゅうはちぶしゅう
    立像りつぞう

    千主観音像の両側には、都の有形文化財に指定されている木造二十八部衆立像が並んでいます。 像高の最大は功徳天像で約102センチ、最小は雷電王(雷神)で約85センチです。 二十八部衆のほとんどは鎌倉時代の作と推定されています。

    ●大般若経だいはんにゃきょう

    堂内の唐櫃(からびつ)の中には、大般若経が収められています。 大般若経は約200巻からなり、応安6(1373)年の銘があり、字体も優れており、市の有形文化財に指定されています。

    ●薬師堂とやくしどうと
    ●木造薬師如来立像もくぞうやくしにょらいりつぞう

    観音堂の前に有り、桁行3間、梁間2件の大きさで、屋根は寄棟造りです。 堂内には藤原時代に作られたと推定される、高さ約180センチの木造薬師如来立像が安置されています。 左手に薬壷を持ち、右手を掲げ施無畏(せむい)印を結ぶ観音寺唯一の一木造りで、薬師堂と共に市の有形文化財に指定されています。

    ●永仁の大板碑えいにんのおおいたぴ

    本堂右手の板碑堂内には、100基近い板碑と一緒に「永仁の大板碑」が収蔵されています。 上部の阿弥陀種子の半分より上が欠けていますが、高さ2.03メートル、幅63センチ、厚さ7.5センチの大きさです。 都下でも最大級の板碑で、昭和39(1964)年に市の有形文化財に指定されています。


    板碑には

    願似比功徳_____奉造立一百余人

    普及於一切_____永仁___年九月十四日

    大勧進僧成円我等与衆生

    逆修卒都婆也

    皆共成仏道


    と刻まれています。 銘文中の「永仁 年は」四の字をきらったものであり、二と二に分けた永仁4(1296)年のことです。
    春日神社かすがじんじゃ

    春日神社は武(たけみかづちのかみ)ほか3神をまつり、明治維新までは春日大明神と呼ばれていました。 本殿は江戸時代初期の建造で、慶安元(1648)年の棟札が残されており、平成2(1990)年に東京都の有形文化財に指定されています。

    鳥居の右側には、かつて野上の一本桧の根本にあった文字馬頭と庚申塔があります。 馬頭は道しるべも兼ねており、「東あふき町(扇町屋)・かわこゑ(川越) 西はんのふ(飯能)・ち丶婦(秩父)」と彫ってあります。

    ●獅子舞ししまい

    例祭はもとは9月19日でしたが近年は10月10日に行っており、獅子舞保存会によって獅子舞が奉納されます。 獅子は3頭で、棒遣いも出演し、市の無形民族文化財に指定されています。

    大門だいもん

    「大門」という地名は、かつて塩船観音寺の裏参道の大門がここにあったからとも、あるいは、今寺の報恩寺の大門があったことに由来するともいわれています。

    青梅市立第3小学校・第3中学校付近を中心とした範囲は、江戸時代から明治22(1889)年までは大門村と呼ばれ、明治22(1889)年から昭和26(1951)年までは霞村の中心地として栄えました。

    霞村の頃は「大門」交差点の北東側に村役場が有り、その後、霞農業協同組合になりました。 また、交差点の北西側には中部馬車鉄道の「大門停車場」がありました。

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